空手とK-1のW王者が東京を離れられなくなるまで

 ニコラス・ペタス氏がヨーロッパの空手チャンピオンになるまでの物語は、映画のようだ。10代の少年がパーティーでDJをしていて、いさかいを起こす。それをきっかけに、わが身を守るために空手を習いはじめる......。しかし、ペタス氏の歩みはそこで止まらなかった。彼は日本の極真空手の創始者であり師範である大山倍達(1923〜94年)の下で、千日間の厳しい内弟子(住み込みの弟子)の修行を終えた外国人のひとりとなった。
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 この経験を活かし、ペタス氏は極真空手の欧州チャンピオンとなる。その後、K-1チャンピオンとなり、大ヒットドラマ『CHANGE』(2008年)に俳優として出演。現在はビジネス・オーナーであり、YouTuberでもある。私たちはペタス氏が経営するジム「クロスフィット」で、彼のこれまでの歩みについて聞いた。

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デンマークの道場で正座する若き日のペタス氏。
Photo: courtesy of NICHOLAS PETTAS

--デンマークで極真空手の稽古を始め、内弟子のことを知ってから、外国人として初めて千日間の修行を終えることが目標になったのですか。

 そうです。ただ、ほかに外国人がいるなんて知りませんでした。当時はインターネットが普及する前で、情報が全くなかった。自分がどんな世界に入っていくのか、見当もつきませんでした。

--内弟子の合格通知を受け取った時はどう感じましたか。

 黒帯の方々がいる部屋に駆け込んで、通知用紙を破らないようにきれいに開けました。開けた瞬間、「うわあ!」と思いました。すでに心は日本に飛んでいました。

--大山氏はあなたが尊敬する偉大な人物でしたが、それまではモノクロの写真でしか知らなかった。実際に会ってみてどうでしたか?

 初めてお会いした日、総裁(極真会館での大山氏はそう呼称)はデスクに座っていて、大きな熊のようにゆっくりと立ち上がり、「東京へようこそ」と言いました。私は頭が真っ白になり、体が震えはじめました。総裁は私の手を握り、顎に触れ、挨拶をしてくれました。通訳を介する会話でしたが、総裁は自分を師として、そして父として見てほしい、何かあればいつでも相談に来なさいと。その代わり、稽古に一生懸命励み、デンマークに帰ったら彼の手足になってほしいと言われました。

--稽古の中でとくに印象に残っている出来事はありますか。

 私は当時、日本では白帯でしたが、デンマークで空手を3年間やっていました。もっと強くなるためには黒帯相手に稽古をする必要があると思ったのです。ある時、一人の黒帯選手と稽古をすることになります。とにかく大きな相手だったのですが、稽古中にうっかり彼の頭を蹴ってしまったのです。すると殴りかかってきて、私の肋骨が折られてしまいました。息もできない中、彼は私の頭を踏みつけ、参ったと言えと怒鳴りました。

 その数年後、彼はまた一緒に稽古をしようと言ってきました。その頃私の体格は、彼とほぼ同じになっていて、以前の何倍も強くなっていました。彼の申し出を受け入れましたが、それはもう、真剣な戦いでした。互いに尊敬の念があったのです。私たちはその後数年間を、お互いの顔を殴り合うことに費やしました。そのおかげで私は今のようなファイターになれたのです。私はそこから学び、彼もそこから学び、チーム全体が強くなりました。今の時代なら、そんな稽古はできないと思います。あまりにも生々しく、あまりにも残酷で、感情を揺さぶられる出来事でした。

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Photo: Roman Odessky

--内弟子の千日間を終えた後、あなたは極真空手のヨーロッパチャンピオンになりました。多くの人にとってはキャリアのピークだと思うのですが、あなたはどうやってその後も前進しつづけたのでしょう。

 ヨーロッパチャンピオンになったのは22歳の時でした。決勝では対戦相手が怖がって、私と戦おうとしなかった。こうしたことは空手、とくに極真ではありえません。その後、世界選手権に出場したのですが、5位に終わりました。つまり、極真で私より強い人間が世界に4人いた。そこでやる気になりました。

--K-1への転向はどのように?

 1997年にフランシスコ・フィリォがK-1にデビューし、アンディ・フグと対戦しました。フィリォは極真初の外国人世界チャンピオンでした。フィリォと、極真空手のヨーロッパ・チャンピオンだったフグを見て、彼らができるなら自分もできると思ったのです。でも、私にはキックボクシングの経験はなかった。自分たちがキックボクシングで一定のレベルに達しているかどうかを知るために、何人かでアメリカに行きました。今、その時のことを2冊目の本に書いているところです。

--俳優業を始めたのは、K-1をやめてからですか。

 実はちょうどその時期です。名前も知られていたし、演技が好きだったので、テレビドラマや映画に出演するようになりました。とくに好きだった作品のひとつは、木村拓哉さんと共演したドラマ『CHANGE』です。今もそうですが、当時の彼は日本で最も有名な人物のひとりで、とても誠実な人でした。

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Photo: Andy Cheng

--重要な試合は別として、人生が本当に変わったと感じた瞬間はありますか。

 間違いなく、今経営しているジム「クロスフィット」の開設ですね。2009年に世界的なスポーツメーカーのReebokの人から電話がかかってきましたが、私はクロスフィットのことを何も知りませんでした。私に関心を持ってくれて、地元のアンバサダーにならないかというのです。Reebok側は、私が自分のジムを開き、すべての器具を提供する形のパッケージ契約を用意していました。当時はまったくお金がなくて、苦労していました。生活費を稼ぐために、友人の会社で翻訳者として働いていたほどです。私はクロスフィットに成長の可能性を感じ、そして人生が変わりました。それまでは何かに頼っていましたが、自分のビジネスを動かすようになったのです。

--「Junk Food Japan」と「The Tokyo Show」というYouTubeチャンネルを運営していますね。なぜYouTubeを始めたのですか。

 実はYouTubeを始めたのは10~15年前で、当時は誰もYouTubeを知りませんでした。カメラに向かって話すだけの動画を約200本作りましたが、今思うとひどい出来でしたね。新型コロナのパンデミックの影響でジムを閉じたので、YouTubeをもっと見るようになり、新しいことに挑戦するようになって、動画の編集や制作についても学びました。

 「クロスフィット」のメンバーのひとりが、私がYouTubeをやっていることを知って、人気YouTuberのクリス・ブロードや櫻井亮太郎に連絡を取ってくれました。もちろん格闘技をテーマにすることが妥当な選択だったけど、単純に楽しめることもやりたかった。そこで、日本食を紹介するチャンネル「Junk Food Japan」を始めました。

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Photo: Junk Food Japan

--2冊目の本の執筆のほかに、今後の予定は?

 チーム、そしてブランドとして、子どもたちの教育に投資したいと考えています。スポーツに関連して何かやりたいですね。それに、私は50歳になりました。同年代の人たちには、ゴルフでもジムでもジャンクフードでも何でもいいから、一つのことを追求するきっかけを与えたいと思いますね。

--キャリアと功績を振り返った時、個人的に一番の出来事は何ですか。

 実は、格闘技とは関係ないことです。2022年、母に会うためデンマークに帰ったら、「あなたのことを本当に誇りに思う」と言ってくれたのです。日本での30年間で自分の息子の人生がどう変わったかを見てくれていたのです。母は、私が日本で生きて、妻のアンジェラと一緒にいることがどれほど幸せなことなのかを理解してくれていました。

--これまでの日本での生活はどのようなものでしたか。まだしばらくは日本で暮らそうと考えていますか?

 日本に来てもうすぐ32年です。多くの人生の浮き沈みを経験し、それでも「勝つ」ことができたのは本当に幸運でした。家族を養わなくてはいけないのに、貯金がゼロになったこともあります。日本は私にとても優しかったのですが、同時にとても厳しかった。しかし言葉や文化を理解できるようになると、どこに行こうとも自分の一部はいつもここにいると気づきました。これからも、日本を離れることはできないでしょうね。

*本記事は、「Tokyo Weekender」(2023年3月9日公開)の提供記事です。

取材・文・写真/アンディ・チェン
翻訳/森田浩之