ダイバーシティの先駆け 後編:
日本における近代病院の礎となった築地
明治維新からおよそ30年間、東京の外国人居留地として発展を遂げた築地。現在の中央区明石町にあたるこの場所で、その痕跡を残すのが100年の歴史を誇る聖路加国際病院だ。日本における近代病院の先駆けとして、また本格的な看護師学校の礎を築いた場所として現在に至る。学校法人聖路加国際大学に40年間勤務し、現在NPO法人築地居留地研究会理事を務める薮 純夫さんに話を聞いた。
聖路加国際病院の創立者はアメリカ人宣教医師のルドルフ・ボリング・トイスラーだ。1901年に聖路加病院を建てて以来、1934年に亡くなるまで日本の医療の発展に尽力した。「聖路加国際病院の源流は1884年、米国聖公会の初代主教で立教学校の創立者、ウイリアムズが居留地37番にあった、立教学校(立教大学や立教中学校の前身)の中に薬局兼診療所を開設したのが始まりです」。米国聖公会は日本にキリスト教を普及するにあたり、教育活動と並んで医療伝道にも力を入れ、本国から宣教医師を次々と派遣した。
医師と対等な立場として看護婦を育成
1900年、築地にやってきたトイスラーが目にした診療所は何の設備もない質素なものだったが、1年の準備期間を経て1901年にこの場所における最初の病院を開設し、初代院長となる。この準備期間に、トイスラーは一人の日本人女性と出会う。立教女学校(現・立教女学院)を卒業した荒木いよ(のちの久保いよ)だ。彼女は神戸のカナダ系ミッション経営の看護婦学校で看護学と医学を学んだのち、女性宣教師、マンの付き添い看護婦として東京で働いていた。その非凡な才能を見抜いたトイスラーは、荒木にアメリカへ留学して看護学を勉強するよう勧めた。
「アメリカでは医者と看護婦は対等という考え方だったので、看護婦にも資格が必要でした。また良い医療を行うためには優秀な看護婦が必要で、そのためには看護婦教育をする人材の育成が必要と考えたのです」。帰国後、初代婦長となった荒木は看護婦養成にとりかかり、1904年には聖路加看護婦学校を発足。ミッションスクールの卒業生を中心に本格的な教育が行われた。
トイスラーの呼びかけにより国内外の優秀な医師を迎え、患者は遠方からも多く訪れるようになる。設立10年後には内科、外科、産婦人科、皮膚科、泌尿器科、耳鼻科、眼科、歯科、X線科を網羅する総合病院となり、病床も70余りに達した。彼が掲げた人道的医療は明治天皇の耳にも入ることとなり、1911年、褒状と花輪が下賜された。その後、関東大震災(1923年)などにより幾度も困難に直面しながらも、博愛の精神をもって病院を死守。けれども、トイスラーはかねてより進めており、1936年11月に完成したゴシック式の立派な礼拝堂を見ることなく、1934年に58歳の生涯を閉じた。
アメリカ医学を基盤とする看護婦教育をはじめ、当時の日本にはなかった公衆衛生事業や医療社会事業など新しい考えを日本の医療に取り入れた聖路加国際病院。トイスラーの類稀ない情熱は、医療の場におけるダイバーシティの先駆けだったといえるだろう。同医院は、現在も東京を代表する病院のひとつとして発展を遂げている。
薮 純夫
1978年、財団法人聖路加国際病院(現・学校法人聖路加国際大学)に事務職として入職。医事課、総務課、病院情報システム企画室などを経て大学史編纂資料室に勤務。『聖路加国際病院八十年史』、『聖路加国際病院100年史』の編纂、トイスラー記念館等の内部資料展示に携わる。定年退職後の現在はNPO法人築地居留地研究会理事を務める。取材・文/久保寺潤子