東京・多摩への日帰り旅行 「将軍のわさび」を求めて

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 12路線が乗り入れ、1日200万人以上が絶え間なく行き来する新宿駅は、世界で最も利用者数の多い鉄道駅だ。だが、人混みをかいくぐってオレンジ色のJR中央線に飛び乗れば、その先には都会の喧騒(けんそう)を忘れさせてくれる大自然があなたを待っている。新宿の西に位置する多摩地域は、知られざる自然の聖地であり、コンクリートジャングルの向こうに広がる緑の楽園だ。
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緑豊かな森の中を流れる川 Photo by Galih Setyo Putro on Unsplash

 新宿から中央線に乗ると、ほどなく吉祥寺駅に到着する。同駅には都立井の頭恩賜公園や三鷹の森ジブリ美術館があり、どれも行く価値がある人気スポットだ。ただし今回の目的地はここではなく、多摩地域の駅でも最西端に位置する奥多摩駅。まだ2時間ほどかかるため、寄り道の時間はない。立川駅でいったん下車し、JR青梅線に乗り換えよう。青梅線は、開通が1894年にさかのぼる歴史ある路線だ。

 電車に揺られるうち、都会から離れていく実感がわいてくる。青梅線沿いには、歴史を感じさせる名所がところどころにある。例えば、羽村駅そばにある「まいまいず井戸」。カタツムリのようならせん状の構造は、水源の乏しい地域で水を調達するために人々が編み出した工法によるものだ。青梅駅も、ノスタルジーあふれる場所だ。駅周辺の青梅宿と呼ばれる地域には、1950年代の邦画や洋画のポスターがいたるところに掲示されており、まるで時が止まったかのようだ。

 青梅を過ぎると、多摩地域の秘めたる魅力が明らかになり始める。窓から見える光景は次第に、入り組んだ渓谷とうっそうと茂った木々が織りなす緑豊かな山々に変わり、周囲は森が生み出す酸素とヒノキの香り、そして湧き水がまじりあった新鮮な空気で満たされる。ここは同じ東京でも、まったくの別世界だ。

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東京・奥多摩の美しい風景

 やがて奥多摩駅に着くと、そこにはもはや現代的な東京の姿はない。駅からさらに西へ向かうと、日原鍾乳洞がある。洞窟内にある見事な鍾乳石の数々は、100万年かけて忍耐強く滴り続けた水のしずくが作り出したものだ。だが他にも、奥多摩の森はちょっとしたサプライズを隠し持っている。それは、かつて徳川将軍家の舌を喜ばせた高級食材、本わさびだ。

 わさびと名の付く製品には、西洋わさび(ホースラディッシュ)を緑色に着色した安価な代用品も多いのだが、本わさびにはそれとは比較できない味わいがある。ブロッコリーやケールの仲間であるわさびは、古くからその抗菌効果が知られ、食中毒を防ぐために魚と一緒に食されてきた。茎をすりおろすと、さわやかな辛みが特徴の薬味となる。中でも奥多摩わさびは、徳川家康が直々にこの地での栽培を命じたことから将軍のわさびとして知られるようになった。

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日本の香辛料わさび

 家康の直感は間違っていなかった。穏やかな気候、適度な湿度がある木陰、新鮮な水がそろった奥多摩は、わさびの栽培にうってつけだった。奥多摩には現在、100枚以上のわさび田があり、中には5万株を栽培する農園もある。他県の農園では30万株の規模に達するものも多いが、奥多摩のわさび生産者が持つ強みは、奥多摩独特の自然環境と、世界最大のわさび市場である東京に近いことだ。努力に見合う需要は常にある。

 美しくも起伏に富んだ奥多摩の山中では、わさび田のサイズが必然的に小さくなるため、栽培には土地勘が必要だ。太古の岩と比較的新しい火山岩が混ざり合う山々は、まるで巨大なスポンジのように水をたくわえている。わさび田に最適な土地は、地下数百メートルから水が湧き出る場所だ。湧き水に含まれるミネラルの成分は場所によって異なるため、奥多摩わさびの味はバラエティに富んでいる。

 奥多摩のわさび農家の間には、強い共同体意識もある。江戸時代から続く伝統は今も重んじられているが、それを若い世代に受け継がせるのは難しい。多くの農家は、自分の持つノウハウを後世に伝えたいと願っているが、日本の多くの伝統と同様、継承者はなかなか見つからない。

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わさびは澄んだ水の流れの中で成長する。

 「わさび食堂」のように、地元の食の伝統を守ろうとする若者が始めたビジネスもある。奥多摩駅から氷川渓谷を渡れば、そこには100年以上の歴史を持つわさび専門店「山城屋」がある。一方で、数駅離れた川井では、わさびに魅了されたオーストラリア出身のデイビッド・ヒューム氏が熱心に栽培を行っている。わさび栽培はもはや閉ざされた世界ではなく、さまざまな人に門戸を開いているのだ。値段は1950~60年代の最盛期には及ばないが、その品質は今も変わらない。

 岩だらけの山肌を数週間、あるいは数か月かけて流れてきた水で育ち、ミネラルをたっぷりと吸収した奥多摩わさびには、大地の力が育んだ辛みと深みがある。丹念に手入れされたわさび田は、奥多摩の大自然に優しく溶け込む。こぢんまりとした魅力を放つわさび田は、奥多摩ハイキングの寄り道にぴったりであることから、わさびをテーマにした美食ツアーや散策プランが増えている。

 果てしない都会が広がる東京だが、都心から西に向かえば、そこには雲取山、三頭山、大岳山といった山々に囲まれて時がゆっくりと流れる場所がある。ここに来れば、あなたもわさびと同じように、東京一の大自然を吸収できる。生産者たちのきめ細やかなこだわりが生み出す本わさびは、奥多摩を代表する名産品であり、奥多摩の最も良い部分を、純粋かつ風味豊かに体現しているのだ。

*本記事は、「Metropolis」(2024年5月16日掲載)の提供記事です。
文/スレイマン・アジジ
写真提供/iStock
翻訳/遠藤宗生