日本と海外の国々をつなぐアート「グレートウェーブ」の魅力
生涯のほとんどを墨田区で過ごした北斎
東京の下町にあるすみだ北斎美術館は開館してまもなく8年目の新しい美術館だ。だが、すでに100万人を超える人々が訪れていて、海外からの来場者も多い。北斎とこの地の縁は、とても深い。
「北斎は、今より寿命が短かった時代にも関わらず長命で、数え90歳まで生き、生涯に93回も引っ越しをしたと言われています。でも、ほとんどの住まいは、今の墨田区内にあったようです」と奥田氏は言う。
「当時の墨田区は、江戸の中心部である日本橋などから見ると、隅田川の向うにある新興の地。一方、隅田川の桜、両国の花火などは当時から有名で、江戸の人々が行楽に訪れて楽しむところでもありました」
北斎はこの地で、人物から自然まで森羅万象をモチーフとして描き続けた。その最高傑作とも言われ、2024年7月に発行された新千円札紙幣にも採用された『神奈川沖浪裏』は、1831年ごろ、北斎が70代前半の時に描かれた作品。高齢期の作品だが、この少しあと、北斎は「自分が70歳になるまでに描いたものは取るに足らないもの」という言葉も書き残している。画業に対する情熱は熱くなる一方で、北斎の創作エネルギーは衰えるということを知らなかった。
新千円札に採用されたグレートウェーブ
同館は年4回の特別展や企画展を開催しており、今年注目を集めたのが、2024年6月~8月に開催された「北斎 グレートウェーブ・インパクト ―神奈川沖浪裏の誕生と軌跡―」だ。同展は『神奈川沖浪裏』が新千円札の図柄として採用されたことを記念して開催された。
展示は4つのパートで構成された。冒頭で『神奈川沖浪裏』が展示され、次に、この絵は西洋の透視図法など、海外の技法や画材を取り入れていることが紹介された。次のパートでは、北斎がこの一枚を描く以前に、おびただしい数のさまざまな大波を描いていることが紹介された。グレートウェーブは、ある日、偶然に立ち上がったわけではなく、天才絵師による長年の探求があってこそやって来た大波だったのだ。
最後のパートでは、漫画家でありアーティストでもあるしりあがり寿氏が『神奈川沖浪裏』の波を太陽のフレアに見立てた作品、レゴ®認定プロビルダーの三井淳平氏が制作したレゴ®作品、ビール缶やポテトチップスの袋などの商業デザインに取り入れられた例など、現代でも再生産され続けるグレートウェーブの姿が紹介された。
グレートウェーブをもっと楽しむポイント
『神奈川沖浪裏』は、ドビュッシーが交響詩『海』のインスピレーションを得たとされるなど、西洋のアーティストにも影響を与えてきた。古今東西の人々から愛されてきた『神奈川沖浪裏』の魅力は、どこにあるのか。奥田氏によると、その見どころは美しい青の色、斬新な構図、迫力ある描写や対比の妙にあるという。
「『神奈川沖浪裏』は、とてもシンプルな色使いですが、複数の青がうまく使われて迫力と一体感を作っています。特にプルシャンブルー(ベロ藍)と呼ばれる青は粒子が細かく、発色が美しいのです。空や海など面積の大きな部分をこれで摺ってグラデーションをつけるととても映えるので、名所絵(風景画)の『冨嶽三十六景』、特に浪裏は青がとても印象に強く残る作品になりました。そして、『神奈川沖浪裏』の構図は、富士山が遠くに、小さく描かれていますね。大きな波が目に飛び込んできますけれど、実は、その奥に富士山が鎮座し、要となっているので、富士山の静と、大波の動の対比が見事に表現されています」
さらに見つめ続けると、この絵には、巨大な波に翻弄されている船も描かれているのが見えてくる。恐怖の航海をしているこれらの船は「押送船(おしおくりぶね)」と呼ばれ、周囲の漁村などから、江戸へ魚を売りに行く船だ。
「ここには、人と自然の対比があります。これも波の迫力を引き立てて、この絵をドラマティックにしている要素のひとつ。さらに、その波の先端は鋭いかぎ爪の形で、それが怪物のように迫ってくるのですから、見る人に忘れがたい印象を残します」
常設展示にも魅力がたくさん
すみだ北斎美術館は、AURORA(常設展示室)も充実している。美術館を訪問する際は、こちらもぜひ回りたい。AURORAでは、情報端末を自分で操作しながら、北斎の生涯を理解できる展示を楽しめる。
浮世絵のオリジナルについては、美術館は多数を収蔵しているのだが、浮世絵は大変傷みやすいので、それらがいつでも見られるわけではない。そこで特別展が開催されていない時期には、AURORAの隣の「常設展プラス」に「今月の逸品」と称したコーナーが設けられ、そこで、月替わりの展示としてオリジナルの錦絵を鑑賞することができる。
常設展示では、『北斎漫画』も鑑賞できる。これは北斎が人物、動物などを生き生きと描いたとても魅力的な画集で、19世紀の西洋美術に大きなインパクトを与えた。
奥田氏は、その理由は「写生の力」にあるという。
「北斎は、何気ないポーズや日常のひとコマを切り取って、自由な構図と見事なデッサン力で描きました。それは、当時、決まった構図を用いることが多かった西洋の美術家たちにとって新鮮だったのだと思います」
1867年のパリ万国博覧会でジャポニズムが花開いてからは、北斎の名前は急速に広がった。ゴッホも影響を受け、ドガは『北斎漫画』を参考にした人物像を描いた。アール・ヌーヴォーを代表するガラス工芸家のガレは、『北斎漫画』の鯉の絵を花瓶の図柄に取り入れた。
「北斎は70年間にわたって絵を描き続けた人で、いろいろな顔があります」と奥田氏は言う。
「画風がさまざまに変わっていき、そうした魅力についても知っていただきたい。今後も企画展やイベントで発信をおこなっていきたいと思いますので、多くの方に足を運んでいただきたいです」
奥田敦子
すみだ北斎美術館