近代日本経済社会の父・渋沢栄一の「顔」
渋沢とゆかりの深い東京駅
江戸時代末期の1840年に生まれた渋沢は、1931年に没するまでの91年の生涯でおよそ500社の企業設立、経営にかかわり、同時に600にのぼる社会・公共事業立ち上げ、運営に尽力した。
事業の分野も幅広く、金融から交通、通信、繊維、製紙、保険、ガス、電力、倉庫、建設、ホテル等々、ほぼ資本主義経済の活動全般におよび、日本資本主義の父とも称されるゆえんだ。桑原館長はこう語る。
「それらの中で最もよく知られているのは、日本最初の銀行である第一国立銀行でしょう。維新後間もない1873(明治6)年、渋沢が中心となり設立して経営トップである総監役(後に頭取)に就任し、76歳で退くまで経営を主導していました」
同行はその後、第一銀行、第一勧業銀行などを経て現みずほ銀行となっている。
「現在の同行兜町支店の位置が、第一国立銀行発祥の地です。いまの支店の建物は4代目ですが、南側壁面には『銀行発祥の地』のプレートが、西側には歴代の建物写真や渋沢の肖像写真などのパネルもあります」
東京の玄関口である東京駅も渋沢とゆかりが深い。1881年に設立された日本初の鉄道会社である日本鉄道株式会社(現在のJR東日本)の経営にも参画し、1914年に竣工した赤レンガが象徴的な東京駅丸の内駅舎には、渋沢が設立した日本煉瓦製造株式会社(現在は廃業)のレンガが使われた。新一万円札の裏面にはその東京駅丸の内駅舎が描かれている。
飛鳥山を愛した理由
その渋沢ゆかりの代表地といえば飛鳥山だろう。江戸時代、8代将軍徳川吉宗が1,270本の桜を植樹した天然の小山で、明治初期の1873年に日本初の都市公園に指定された。現在も約73,000平方メートルの敷地に約650本もの桜が植えられている都内でも有数の桜の名所だ。
渋沢はこの地に1879年、内外の賓客を招く別邸として館を建て、1901年からは本邸として亡くなるまで過ごした。
幕末期、最後の将軍徳川慶喜の家臣であった渋沢にとって、吉宗が開いたこの地には縁を感じる面もあっただろうが、それ以上にこの地に惹かれた理由を桑原館長がこう教えてくれた。
「やはり、渋沢が設立した製紙会社の工場を眼下に見下ろせる場所、という点が大きかったのでしょう」
現在の王子ホールディングス株式会社、日本製紙株式会社のルーツであるこの会社は、日本の近代製紙業の原点ともいえる。
「設立は1873年で、第一国立銀行と同じく渋沢が実業家として最初に手掛けた株式会社ですし、後々まで経営に携わっただけに愛着もひとしおでした。その工場をつくる際、大型の製紙機械や洋紙の原料を運ぶには水運の便がよく、広々とした土地が必要で、渋沢はあちこちを視察しています。そのなかで、隅田川から石神井川を通って目の前まで運べるこの地が至便であり、さらに製紙工程で必要な綺麗な水も近くの千川用水を利用できるなど、あらゆる点で絶好の地と考えたようです」
飛鳥山の渋沢邸には数多くの賓客が訪れた。海外からは1879年、米大統領の任期を終えたばかりのユリシーズ・S・グラント将軍を国賓として来日した際に招いている。また1881年には、現職の外国元首としてはじめてハワイ王国の第7代カラカウア国王が訪問した。
伊藤博文や井上馨、桂太郎など明治期の大物政治家らも招いているが、渋沢にとって最も感慨深かったのは1889年、かつての主君であった徳川慶喜を招いたことだったかもしれない。
華美を良しとしない人柄と哲学
飛鳥山公園に沿って走っている都電荒川線は東京に残る唯一の都電であり、現在は「東京さくらトラム」の愛称で親しまれている。地域の身近な足としてばかりか、車中からは桜やバラなど季節ごとに咲き誇る花々を楽しめ、歴史と文化を感じつつ、渋沢が想い描いた近代日本へのロマンにも想いを馳せることができるだろう。
この飛鳥山にあった旧渋沢邸跡地に1982年開館したのが渋沢史料館だ。新一万円札の肖像採用が決まったのを記念に2023年秋より2期に分け、企画展「渋沢栄一肖像展」を開催し、絵画や彫刻など渋沢の姿をうつした造形作品を取り上げた。
「飛鳥山の旧渋沢庭園には大正時代に建てられた『晩香廬(ばんこうろ)』と『青淵文庫(せいえんぶんこ)』という建物が当時の姿のまま残っていて国の重要文化財にも指定されています。いずれもごく質素で、渋沢の飾らない、華美を良しとしなかった人柄が窺えます」
渋沢は教育や福祉など様々な社会・公共事業に関わり、推進しているが、そうした面にも渋沢独自の哲学、思想が込められていると桑原館長は考えている。
「公益事業には理念が必須ですが、維持継続させていくには経済的にも成り立たせ、社会に根差す仕組みを作らねばならない。理念や道義に適った事業であればあるほど、一過性ではなく永続させてこそはじめて本当に社会に有益なものになり、世代を越えて受け継がれていくのだと常に考えて動いていた。こうした展示でその生涯を俯瞰して見ると、それがよくわかるのです」