東京の郷土料理「深川めし」の歴史と魅力
ルーツは漁師の賄い飯
深川めし発祥は江戸時代と伝えられる。当時、深川一帯は深川浦と呼ばれ、江戸湾(現在の東京湾)の潮が引けば砂が露出する砂州が広がる地だった。そこでハマグリやカキ、バカ貝(別名アオヤギ)、アサリなどの貝類が多く獲れていたという。
「漁師たちが昼食時に手軽に食べられるようにと考えられた食べ方が、深川めしの始まりとされています」と飯島氏は話す。
当時の漁師の昼食時間は15分ほど。真水で薄めた海水を船上で沸かし、アサリと長ネギ、豆腐を煮てそのまま冷たい白米にぶっかけて食べたのだとか。漁師の賄い飯がルーツというわけだ。
「ただし、古い文献によると当初はアサリではなくアオヤギだったらしい。いつの時期かはっきりわかりませんが、江戸時代にアオヤギがだんだん獲れなくなった。おそらく、埋め立てが進んだことや気候変化もあったのでしょう。アサリの方がよく獲れるようになったので、アオヤギから切り替わっていったようです」
その後、屋台や一膳飯屋などが味噌や醤油で味付けしたものを出すようになり、漁師以外にも徐々に浸透していく。一般家庭ではアサリを入れた炊き込みご飯が考案され、新鮮なアサリが安価で手に入る深川ならではの家庭料理として普及していった。
一度は消え去ったがバブルで復活
ところが、戦後十数年がたった頃から深川めしは次第に廃れてしまう。高度成長による工場排水などで水質が汚染、変化し、湾岸地域でさらなる埋め立てや整備が進んだためだ。
「東京湾では貝類はもちろん魚が激減し、もはや漁ができなくなった。1962年には漁業組合が漁業権を放棄し、漁師もいなくなってしまいました」
アサリが獲れなくなった結果、飲食店や日常の食卓から深川めしは消え去ってしまう。深川で生まれ育ち現在61歳の飯島氏も、幼少期には深川めしの存在すら知らないほどになっていたという。
そんな深川に転機が訪れるのは、バブル時代と呼ばれる1980年代後半。日本全体が好景気に沸いたことで観光ブームが巻き起こり、下町人気に火がついて深川にも全国から人が押し寄せるようになった。富岡八幡宮にも観光客が集まるようになり、江東区芭蕉記念館(1981年開館)や深川江戸資料館(1986年開館)といった観光スポットも人気を博す。
「せっかく空前の下町ブームなのだから、何か地元の名物を売り出して町おこしにつなげようという話になり、私の父の世代の人たちが思い出したのが深川めしでした。これこそ地元の郷土料理だと」
そうやって復活したのが現在の深川めしだ。富岡八幡宮や深川江戸資料館の周辺に次々と専門店が誕生し、割烹料理屋や和食店などでも提供されるようになる。飯島氏の父も深川不動尊の向かいに専門店「門前茶屋」を開店した。
歴史的な文化遺産を後世に
飯島氏自身は大学時代に深川を離れるが、25年ほど前に地元に戻って父の店で修行し、2022年に独立して「深川めし八郎右衛門」をオープンさせた。8年前からは、深川めし振興協議会を設立する際の中心メンバーとして奔走し、現在は会長として先頭に立っている。
「ピーク時で二十数軒あった協議会の加盟店ですが、コロナの影響や後継者の問題などで5軒も廃業してしまいました。それで危機感を覚え、なんとか盛り返さねばとみんなで話し合い、いまはさまざまな取組をしているところです」
狙いは、地元の振興と深川めしの普及だ。そのために、協議会主催で深川めしを食べてもらうイベントを3か月おきに開催している。もちろん観光客も大歓迎だが、地元の人たちがもっと深川めしになじんでくれれば、日常的にお店にもお客として集まってくれるのではという期待がある。
また、毎年3月に開催される東京マラソンでは富岡八幡宮の前が折り返し地点になっているため、地元の深川東京モダン館にブースを設けて1杯100円で提供している。毎回、用意した300食が完売するほど大好評だ。
「都内でマルシェや各種のフェスティバルなどが開催される際は、出店できそうならばできるだけ行きます。深川めしというのは、いわば郷土の歴史的な文化遺産。お店が続いていくことも大事ですが、地元の人たちが日常的に食べ続けてくれることで、そうした文化遺産が後世に受け継がれていけばうれしいですね」
飯島尋幸
写真/穐吉洋子