世界一のヴィーガン・シェフが語るフードダイバーシティの可能性

会員制レストランで気づいた食の多様性のニーズ
楠本氏が食の多様性への対応を始めたのは、2014年のこと。西麻布の会員制レストランでシェフを務めていた頃、「イスラム教の方を接待したい」という相談から始まり、徐々にそのニーズに応えていくことになった。海外からの富裕層の客も多かったことから、プライベートジェット用の機内食なども依頼されるようになった。
いわゆる「おもてなしの和食」というと、日本人は会席料理のコースをイメージするだろう。しかし、実際に外国人が求めている日本食はまったく異なるという。
「会席料理はお酒を楽しむための料理。お酒を飲まないイスラム教徒の方にとっては、退屈に感じてしまうかもしれません」と楠本氏は語る。正しい和食のルールや味を提供する以前に、彼らの宗教感や食の禁忌を理解し、まずは食事を楽しく食べてもらうことが大切なのだ。
「ラーメン、おでん、お好み焼き。私たち日本人がごく普通に食べているものを、みんな食べたいんです」
さまざまなリクエストに応える中で、外国人が本当に食べたいものを、相手が食べられる食材で工夫して提供することが、食を楽しんでもらうための近道だと考えるようになった。

誰も我慢せず、みんなが楽しめるヴィーガン料理を
菜道がオープンしたのは2018年9月。以来、ここでしか食べられないヴィーガン和食を求め、国内外から連日多くの客が訪れる。その人気は、毎月1日の受付日には、翌1か月分の予約がすぐにいっぱいになるほどだ。
菜道では、動物由来食材、うま味調味料、精製糖、主に台湾に多く存在する仏教由来の一部のベジタリアンで禁忌とされている五葷(ごくん:にんにく、にら、らっきょう、あさつき、ねぎ・たまねぎ)を一切使用せず、精進料理と同様のスペックでありながら、麺類、丼、揚げ物など、お腹と心を満たす料理を楽しめる。

「例えばヴィーガンの恋人の誕生日に、ヴィーガン・レストランのコースを予約する。だけど予約した本人が実はヴィーガン料理では物足りないと感じていたら、その時間を心から楽しめないじゃないですか。そうではなくて、菜道では訪れるお客様全員に満足してもらいたい」
菜道は、ヴィーガン・ノンヴィーガンに関わらず、お客様が同じ料理を食べておいしさを共有し、一緒の時間を楽しむことをもっとも大切にしている。同じ釜の飯を食べて心の距離を近づけることこそ、楠本氏が考える真のフードダイバーシティなのだ。
日本独自の伝統食材で、世界に挑む
楠本氏は海外での活動にも積極的だ。2023年には日本文化発信の拠点「JAPAN HOUSE Los Angeles」で、ポップアップイベント「SAIDO's VEGAN WAY」を開催した。フードテック最先端の地で、あえてフードテック食材を一切使わず、日本独自の伝統的な食材で勝負し、大きな手応えを感じたという。
「日本と海外の圧倒的な違いは、日本はもともと菜食文化だったこと。野菜料理や保存食のレシピが多く、昔から脈々と受け継がれている食材や知恵を工夫すれば、世界を十分驚かせることができる」
イベントでは、乾燥椎茸の風味と食感に多くの人が驚き、戻し汁をスープに使うというサステナブルな面も評価された。日本人にとってはごく当たり前の食材も、海外のヴィーガンたちにとっては驚きと可能性に満ちている。

世界ではまだ知られていない日本の食材や調理法を求め、楠本氏は地方を訪れる際には必ず道の駅などに足を運ぶ。各地に伝わる郷土料理の味を、現代の外国人が食べやすいようにアレンジすることも多い。
四季折々の季節の野菜が楽しめることに加え、日本の野菜はクオリティが高く、世界でも評価されている。菜道の夏の定番メニューであるとうもろこしのスープは、素材そのものの甘みを生かした味に、食べる人全員が喜び、感動するという。
ヴィーガンという存在を、まずは知ることから
ヴィーガン・ベジタリアン人口は世界的に増加傾向にあり、2023年には約5.3億人に達した。一方で、「HappyCow」に登録されている東京のヴィーガン・ベジタリアン対応レストランは、2024年時点でヴィーガン・レストランが119軒、ベジタリアン向けのメニューがあるレストランは700軒以上となっている。若干の増加傾向はあるものの、近年のインバウンド需要と世界のヴィーガン・ベジタリアン人口を考えると、まだまだ受け皿は足りないといえるだろう。
飲食店がヴィーガン・ベジタリアン対応を始めるにあたり、最初は「特別なメニューを用意する必要はない」と楠本氏は話す。例えば居酒屋であれば、枝豆、冷奴、フライドポテト、おにぎりなど、メニューの中にすでにヴィーガン料理があるはずなのだ。

「突然ヴィーガンの外国人観光客が来たら、どう対応していいのかわからなくて不安になると思います。でも、もっと不安なのは相手(外国人観光客)の方なんです」
言葉が通じない国に来て、ヴィーガン料理を食べられる飲食店を見つけられない。コンビニに入っても、すべて日本語表記で原材料に何が使われているかわからない。安心して食を楽しめないと、旅先としての魅力は半減してしまうだろう。それは彼らにとって残念なことであり、飲食店側にとってもチャンスを逃してしまうことになる。
「課題がわかっている以上、あとは解決するだけ。裏を返せば伸びしろであり、食の多様性への対応には可能性とチャンスしかない」
ほんの少しの想像力を持って、柔軟に門戸を開く意識改革が今後求められる。
2023年に東京観光大使に任命された楠本氏は、都内の飲食事業者向けにセミナーを開催するなど、食の多様性対応を広げるための活動に取り組んでいる。「あらゆるジャンルの料理が食べられる東京は、競争が激しいぶん料理人のレベルが高い」と話し、インバウンドの幅広い需要に応えることで、今後もクオリティの向上が期待できるという。
また、これからの日本を支える若き料理人の教育にも関心が高い楠本氏。「料理の技術だけでなく、フードダイバーシティの重要性を伝えていくことが使命」と語ってくれた。
楠本勝三
写真/井上勝也