御岳山に宿泊し、心身ともにリフレッシュ

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 東京といえば都市の景観で知られているが、実のところ都の西部には山林が多い。霊山御岳山もその一つであり、山頂には歴史ある武蔵御嶽神社が鎮座する。この神社の周辺には、「宿坊」と呼ばれる参拝者のための昔ながらの宿泊施設が数多く存在する。そんな宿坊の一つ「東馬場」が考案したのが、「ちょうどいい」状態に心身を調えることができる、新しい体験型ステイである。
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馬場家の皆さん。東馬場の表口にて。

天空の神社

 「天空の神社」として知られる武蔵御嶽神社は、海抜約900メートルに位置している。かつて社殿は南を向いていたが、江戸時代初期の1606年に、徳川家康の命により、新たな政治の中心となった江戸がある東を向くよう改築された。見どころは、たびたび登場する狼のモチーフ、数々の刀や鎧が納められた宝物殿などである。

 東京都心から御岳山へは電車とバス、そして急勾配を登るケーブルカーでアクセスできる。許可を受けた住民やライフライン事業者等に限り、狭い曲がりくねった道路を利用して車で山頂に登ることも可能だ。 

 武蔵御嶽神社は辺鄙な場所にあるため、昔から参拝者は近くの宿坊に一泊するのが一般的だった。その中でも、400年以上にわたって馬場家が営んできた東馬場は、ひときわ目を引く。1866年に竣工した現在の建物は、昔ながらの和室や見事な茅葺き屋根、歴史ある美しい厠(現在は使用不可)など、江戸後期の特徴的な建物の姿をそのまま残している。東馬場は東京都の有形文化財に登録されている。 

 馬場家は、戦国時代の甲斐国(現在の山梨県)領主に仕えた有力な家臣の末裔と伝えられており、代々、一家の男子が武蔵御嶽神社の御師(おし)と呼ばれる神職を務めてきた。現在は、14代目御師の克巳さんと妻の幸代さんが、息子夫婦の晃一さんと佳世子さんの力強いサポートを受けながら、東馬場を切り盛りしている。晃一さんと佳世子さんの幼い3人の息子たちは、将来の御師の「候補」であるが、その選択は彼らが大きくなってから自分たちでするものだと佳世子さんは言う。

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霊山御岳山の頂上に鎮座する武蔵御嶽神社

東馬場で「ちょうどいい」を見つける

 近年、馬場一家は、東馬場が宿泊客に提供する体験を見直そうと知恵を出し合った。そして、3年間の準備期間を経て、伝統的な神事と温泉のようなくつろぎ、および家庭的でありながら洗練された食事を組み合わせた体験型宿泊プラン「トトノヰノトト(調いの杜泊)」が生まれた。家族一人ひとりの知識や経験をもとに考えられたものだ。

 このプランは、昼食を済ませた宿泊客が到着するところから始まる。馬場家の紹介に続き、幸代さんと佳世子さんが花や薬草を使った薬効茶を出してくれる。リラクゼーションや免疫力アップなど、各自の目的に合わせてブレンドを選ぶことができる。 

 次に、宿泊客は、山林に隣接する東馬場の裏庭へと案内される。そこでは、温かいサウナと冷たい水風呂、そしてデッキチェアでふわふわの毛布に身を包んでの森林浴を自分のペースで交互に楽しむことができる。克巳さんが出てきて、山での生活について話したり、篠笛で夜の調べを奏でてくれることもある。

 さらに、今度は建物内の風呂に入り、入浴後は昔ながらの和風の部屋着に着替える。そこへ克巳さんが神職の装束で再び登場し、馬場家の内神殿で神事が執り行われる。宿泊客は翌日、武蔵御嶽神社の朝の儀式に参加するため、克巳さんから正しいお供えの仕方を教わる。神道の儀式では、神饌(しんせん:神に供える飲食物)をお供えすることが多いが、克巳さんによれば、奉納された食べ物は通常、後で神職らがいただくのだという。 

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 東馬場では、この夕食前の神事で内神殿に料理をお供えし、それを宿泊者がいただく。幸代さんと佳世子さんが作る絶品料理は、幸福を積み重ねるという意味を込めた三段重に詰めて供される。古くからのしきたりで、神社では四つ足の動物の肉をお供えすることは禁じられているが、幸代さんは、重箱の料理に加え、後からテーブルで肉料理を出している。 

 最後に、すっかり満足してリラックスした宿泊客は、薬草を使った手浴で1日を締めくくり、東馬場の贅沢なマットレスと布団に横たわる。

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美味しい手料理は、最初に神前に供えられた後、宿泊者が楽しむ。

静かな山の朝

 御岳山には、とりわけ山が赤や金色に色づく秋に多くの人が訪れるが、宿坊に泊り、日の出とともに目覚めると、日帰りではなかなか体験できない心安らぐ静けさと柔らかな光を堪能できる。 

 朝6時半、宿泊客は朝食の弁当を手に東馬場を出発し、山頂の武蔵御嶽神社まで300段の階段を上る。近所の猫たちが、しばし道中をともにすることもあるが、やがて路地や森へと姿を消してしまう。はるか眼下では、東京を覆う優しいピンク色の雲海が徐々に消え、輝くような澄んだ朝が訪れる。 

 頂上に到着したら、神社の守護である狼をかたどった狛犬が用心深く見守る中を歩いて本殿に入り、朝の儀式に臨む。馬場家の人たちによれば、宿坊に泊まって身を清めてから神社を訪れるのが、古くから伝わる正式な参拝の作法だという。 

 短い儀式の後、宿泊客は東馬場の調師(ととのし)である幸代さんが用意してくれた野菜や魚に栄養満点の味噌汁がついた朝食の弁当を味わう。実は、「調師」という呼称は佳世子さんが義理の両親と一緒に考案したものだ。宿泊客が心身をリセットし、快適に過ごせるようサポートするという、御師の妻の役割に光を当てようとしたのだ。

 東馬場に戻ると、克巳さんが墨と筆で一人ひとりに手書きの護符を書いてくれる。言葉には思いを現実にする力があると克巳さんは言う。そして、火打ち石と鋼で起こした火花とともに、宿泊者は宿坊を去る。

 東馬場のトトノヰノトト体験は、格式ばったものではなく、宗教色も強くない。素晴らしい山の景色、美味しい料理、豊かな文化体験に加えて、この宿坊に滞在する最大の楽しみの一つは、馬場家の、彼ら自身の言葉を借りれば「風変わりでユニークで陽気な」人々と知り合えることである。一家は、何百年にもわたって受け継がれてきた伝統と、新たな世代の創造的なアイデアを織り交ぜながら、さまざまな形でこの東京の霊山詣でを充実したものにしてくれる。

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御岳山からの眺め。東京の夜が明け、雲が淡いピンク色に輝く。

(左から)馬場晃一さん、佳世子さん、幸代さん、克巳さん

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馬場家は、戦国時代の甲斐国領主の重臣であった馬場美濃守信春の末裔と言われている。馬場家の男子は、400年以上にわたり代々、御師と呼ばれる武蔵御嶽神社の神職を務めてきた。御師は、妻の調師とともに、宿坊と呼ばれる参拝客のための宿泊施設の運営にあたる。克巳さんと幸代さんは14代目、晃一さんと佳世子さんは15代目の御師と調師である。
取材・文/アナリス・ガイズバート
写真/穐吉洋子
翻訳/喜多知子