坐禅で学ぶ「立ち止まる」ことの大切さ 都内の寺で体験

菩提樹の下から世界に根付いた坐禅
インドで生まれ、中国で栄えた坐禅は、13世紀初頭に日本にもたらされた。日本では禅宗の修行として受け継がれ、欧米でも20世紀から21世紀にかけて人気が沸騰した。
禅宗と坐禅から影響を受けた著名人の一人が、アップルの創業者スティーブ・ジョブズだ。人生を通じて精神世界を探求し、坐禅と禅思想に関心を持っていたことで知られている。2011年に死去した際には、多くのメディアがジョブズと禅とのつながりに関する記事を掲載し、欧米での坐禅人気がさらに高まった。
現代社会では心の健康を重視する風潮が強まっており、坐禅に加え、瞑想やジャーナリングなどの「マインドフルネス」と呼ばれるエクササイズが世界中で実践されている。個人でも実践できるマインドフルネスは多くあるが、坐禅の本場である日本では、僧侶から直々の手ほどきを受けられる寺が各地にある。その一つが、東京都世田谷区の龍雲寺だ。
たとえ苦しくても「今」に集中する
「坐禅は、禅を体験する方法の一つです。ゆっくりと呼吸して体をリラックスさせ、心を整える座り方です」。龍雲寺で坐禅体験を行っている神奈川県川崎市薬師院の稲田健昌氏はこう説明する。
坐禅には決まった座り方があり、結跏趺坐(けっかふざ)あるいは半跏趺坐(はんかふざ)と呼ばれる姿勢のいずれかで行う。尻の下にクッションを置いて腰を浮かせ、両手を足の上で組み、背筋を伸ばして頭頂をつり上げるようにして座る。

坐禅を組んだら、床を見下ろし、自分の呼吸に意識を集中させる。「人は普段、情報の約80%を視覚から得ており、視覚に頼りすぎることがあります。坐禅は、そうした意識を体の他の部位に移すのに役立ちます」と稲田氏は説明する。
坐禅を組むと、足などがしびれることがよくある。稲田氏は「坐禅は体を痛めつけるためのものではありませんが、足がしびれるのは良いことです。人間は、何かが目に入ると、自動的にそれについて考えてしまう。しかしこの状態にあると、考えるよりも先に、痛みを直感的に感じます。何かを感じること、体の感覚を覚えることは、たとえそれが痛みであっても、とても大切です」と語る。
瞑想中に集中力が途切れたり、眠気に襲われたりすることも珍しくない。そこで僧侶は、警策と呼ばれる棒で、瞑想者の両肩を叩く。その時がくると僧侶が近づいてきて、瞑想者と一緒に頭を下げる。瞑想者が腕を胸の上で組み、上半身を前に倒すと、僧侶はその肩を何度か叩く。打つ力は強すぎず、集中力を取り戻すのに十分な程度だ。
坐禅の心得を学ぶ
坐禅をすることで何が得られるのかと聞くと、稲田氏はこう答えた。「坐禅は何かを得るためではなく、捨てるために行うものです。強いて言えば、一人ひとりが持っている重いものを、一つずつ捨てやすくなるという恩恵があります」
スキルや知識、経験、富などを常に蓄積していかなければいけないというプレッシャーを抱える人にとって、この考え方は新鮮だ。「捨てる」という行為は悲しくも思えるが、同時に自由を与えてくれるものでもある。「人は良いことも悪いことも抱え込みすぎて、重くなってしまいがちな生き物です」と稲田氏は語る。

この教えを広めようと2005年に開設されたのが、東京禅センターだ。龍雲寺の隣に事務所を構え、主催する坐禅体験の多くをこの寺で実施している。体験は誰でも参加が可能だ。「老若男女が参加しており、最年少は母親と一緒に来る幼稚園児、最年長はしばらく前から常連となっている80代のおばあちゃんです」と稲田氏は話す。毎週火曜日に催され、毎回15~20人が参加するという。
また、旅行者や在日外国人の参加も歓迎している。「外国人の方は2~3人でいらっしゃることが多いですが、時にはグループでの参加もあります」。お寺の雰囲気を味わいながら、坐禅を体験することは多くの人にとって新鮮な魅力があるが、稲田氏によると、参加者たちはさらに言葉にはできない深いものを感じた上で体験を終えているという。
仏教徒でなくても参加できるのかと尋ねると、稲田氏は「もちろんです。一人ひとりの信条を尊重しながら、私たちが一緒にできることを共有するというのが、基本的な考え方です」と答えた。
やるべきこと、考えるべきことが無限にあふれている東京のような街で、坐禅は非常に有益だと稲田氏は言う。「坐禅は『句点』を文章に置くことです。立ち止まって、句点を置いた上で、新しい文を始めるのです」。多くの人にとって、一度立ち止まり、仕切り直し、再出発することは、健やかな心を保ち、最終的には自己をより深く理解して前に進むための貴重な体験となるだろう。
稲田健昌
写真/穐吉洋子
翻訳/遠藤宗生