車いすテニスの英雄は引退後も高みを目指し続ける

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 パラリンピックで4度金メダルに輝き、グランドスラムのシングルスで28回タイトルを獲得した国枝慎吾氏は、車いすテニス史上最高の選手である。2023年に世界ランキング1位のまま引退した後は、フロリダに移って第二の人生に向け新しい目標を設定した。国枝氏は東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会を記憶にとどめたいと願い、どうしたらすべての人がもっとインクルーシブな社会で生きられるかを考える。
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国枝氏は車いすテニス史上最高の選手と称され、メジャータイトルを総なめにした。

―現在はどこを拠点にしていますか。また、2025年のウインターシーズンをどのように過ごしていますか。

 昨年初め、第二の人生を歩むためにフロリダに移ることを決めました。オーランドにある全米テニス協会(USTA)のトレーニング施設内で車いすテニスのアドバイザーとして生活し、主に若手選手を指導しています。ここでは12月中旬まで半袖で過ごしていましたが、1月上旬から冷え込んできました。それでも、ここに多くのプロテニスプレーヤーやアカデミーが集まる理由がわかります。一年を通して天候が素晴らしいのです。

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全米テニス協会(USTA)の施設の前でカメラにポーズを取る国枝氏。

―米国で活動することを決めたのはどのような理由からですか。

 まず、英語力を高めたいと思いました。第二の人生を歩み、車いすテニスに変化を起こそうと思うなら必要不可欠なスキルですから。米国を選んだのは、選手時代、グランドスラムの中で全米オープンが最も車いす競技の盛り上がりを感じられなかったことも理由です。米国では、まだ車いすテニスの観客はさほど多くありません。米国はテニス大国なのに、近年は男子、女子ともグランドスラムでタイトルを獲得するような強い車いすテニス選手がいません。盛り上がるための一番の近道は、自国の選手が強いことです。それに、ヨーロッパと日本が車いすテニス強国である昨今、アメリカが強ければ業界全体の活性化に繋がります。ここでは毎日、主にジュニア選手のコーチを行っています。幸い、私のテニスのレベルはまだそれほど落ちていないので、彼らが世界レベルとの距離を測るための良い基準になれるはずです。彼らをトップグループに導くためのアドバイスを提供できればと考えています。

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国枝氏は引退後もコーチとしてコートでプレーし続けている。

―皆が学びたいと思うことの一つは、プレッシャーに打ち勝つ能力でしょう。あなたはどうしていましたか。

 本当のところ、プレッシャーと戦うには細かいところに注意を向けるべきだと思います。毎日もっと良いプレーヤーになろうと、変わらない情熱をもって努力し続け、完璧を追い求めることで集中力が保たれます。この視点を失ったときにプレッシャーが生じます。過去や未来について考えすぎてしまうのです。プロセスを楽しむことがとても大切だと思います。具体的な例を挙げると、私は30代になってから39歳で引退するまで、初心者とほぼ同じように、ショットの改善に真剣に集中していました。新しいテクニックを習得しようとしていました。身体能力の衰えを止めることはできませんが、戦術とテクニックでより優れたプレーヤーになることは必ずできます。努力を続けて集中力を保つのです。

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国枝氏はコートの外では陽気だが、ひとたびラケットを握ると真剣そのものになる。

―最近、『マイ・ワースト・ゲーム』という自伝を出版されました。若い世代にとってヒントになることがありそうです。

 長いテニスキャリアだったので浮き沈みは当然ありました。特に怪我による挫折は、引退を意識しなければならないほど険しく、苦しいものでした。そういった状況下だからこそ、トライアンドエラーを繰り返し、より深くこの競技を知ることができたと思っています。また、テニスは個人スポーツであり、その裏にいる方々の姿が見えにくい面もあります。先人の方々やサポートしてくれた人達の存在があったことも、この本を通して伝えたいことでした。

―素晴らしいキャリアを振り返ってみて、一番幸せだった時はいつですか。

 東京2020パラリンピック大会が生涯最高の思い出です。あの大会があったから、30代になっても自分を駆り立てました。東京2020がなかったら、リオ2016パラリンピックで引退していたでしょう。東京でパラリンピックが開催されると決まった2013年から7年間、東京2020を視野に入れてきたと言えます。この大きな目標が、最後の数年間グランドスラムで戦う力を与えてくれました。つらく長い数年ではありましたが、夢があったから戦えたのです。

―東京2020パラリンピック大会は、どういった意味で特別だったのですか。

 私は5回パラリンピックで戦いましたが、東京で起きた最大の変化は、世界中のファンやメディアにプレーが届いたことです。いつもは「金メダルおめでとう!」と声をかけられますが、東京では呼び止められて「あの試合のあの場面のプレーがよかった」と言われました。確かに試合を見てくれていたのです。私にとってこれが最大の成果でした。私の試合は日本のゴールデンタイムに放送され、多くの人々に届き、日本と世界の視聴者に車いすテニスを広く知ってもらうことができました。

―2022年ウィンブルドン選手権の直後に引退を決意されましたが、悔いはありませんでしたか。

 東京2020の後になんとかウィンブルドンで優勝できましたが、もう燃え尽きました。もはや明確な目標がなく、夢はすべて実現しました。最高のテニス人生を送ってきましたが、もうやりきったと言えます。慢性的な腰痛のせいもあったと思いますが、大好きなこの競技が残りの人生にとって負担になることは望みませんでした。

―パリ2024パラリンピック大会で車いすテニスの発展は見られましたか。

 パリ・パラリンピックの車いすテニスはほぼ完売でした! ローラン・ギャロスの最初の5日間は最高でした。新型コロナの感染拡大がなければ、東京でも同じことが起きたと思います。パリの雰囲気は信じられないほどでした。ファンが選手を応援し、オリンピックと同じように会場で楽しんでいました。パリは、パラリンピックをすべての人が観戦するという新たな基準を作ったと思います。車いすテニスのフランス・チームを率いたのは、テニス界のレジェンド、ヤニック・ノアでした。彼は車いすテニスに注目を集め、このスポーツが急速に発展していることを示してくれました。いつか日本でも錦織圭選手が車いすテニスの代表監督になることを願っています(笑)

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パリ2024パラリンピック大会で、国枝氏はNHKの「アスリートナビゲーター」として会場から熱気を伝えた。

―LA2028パラリンピックには何を期待しますか。

 まだ取り組むべき問題は山積しています。パリでもアクセシビリティは問題だったと思います。ロサンゼルスでは、世界屈指のバリアフリー国でもあるアメリカなので心配はないはずです。パラリンピックには、社会全体の変化を推し進め、障害に対する人々の見方を変える目的もあることを忘れてはなりません。スポーツイベントとしては、オリンピックの熱を冷まさないために、オリンピックが終わってからパラリンピックまで2週間も開けるべきではないかもしれません。オリンピックの直後、またはテニスのグランドスラムと同様、同じイベントの一部として開催することを模索するのも面白いかもしれません。

―最後に、車いすテニスの未来について聞かせてください。

 これは現役の時からずっと考えが変わらないことですが、より多くの人を巻き込んだり、競技を発展させるためには選手自身のレベルを上げることです。選手はそのことに集中することです。観客の方々の期待を上回るプレーを目指して取り組めば、きっとこのスポーツを楽しむファンは増えてくれると信じています。

国枝慎吾

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国枝慎吾氏は1984年生まれ、千葉県出身。車いすテニスの王者でありパイオニア。車いすテニスの男子プレーヤーとして初めて生涯ゴールデンスラムを達成した記録を持つ。パラリンピックで4つの金メダル、グランドスラムで28のシングルスのタイトル、22のダブルスのタイトルを獲得した。
取材・文/フローラン・ダバディ
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翻訳/伊豆原弓