Tokyo Embassy Talk:
日本とオランダ:425年にわたる友好関係は共通の未来に向けて続く

歴代の駐日オランダ外交官に名を連ねた新大使
プルッフ大使は、2024年東京に到着後まもなく皇居を訪れ、天皇陛下に信任状を捧呈した。その時、大使は同じ役割を担ってきた歴代の多くの外交官たちに思いを馳せた。徳川幕府が統治していた江戸時代、日本の政治の中心は江戸にあった。オランダの外交官と日本の指導者たちとの最も古い出会いは、初代将軍、徳川家康の時代に始まった。
「何世紀にもわたって日本の指導者たちに親書を渡してきたオランダの外交官たちのことが頭に浮かびました。最も古くは、もちろん江戸城での徳川将軍家との交流で、初代将軍、徳川家康の時代にまでさかのぼります。ですから、私が天皇陛下に信任状を捧呈したことで、歴代の駐日オランダ外交官の末席に名を連ねたことに身が引き締まる思いです」と、大使は語る。
日本とオランダの最初の交流は、1600年4月にオランダ商船リーフデ号が九州に漂着した時に始まる。ジェームズ・クラベルの小説『将軍』(テレビシリーズ化され2024年にエミー賞を受賞)にも出てくるが、船を操縦していたのはイギリス人のウィリアム・アダムスだ。リーフデ号のオランダ人生存者の一人ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインの名前は、「耶楊子(ヤヨウス)」という日本名に音訳された。東京駅の東側にある現在の「八重洲」という地名は、このヤン・ヨーステンの日本名に由来している。
日本がその後200年以上続いた鎖国に入ると、オランダはヨーロッパで唯一、幕府から交易の特権を与えられた国になった。オランダ商人たちの小さなコミュニティは、長崎に人工的に作られた出島の中に限り、日本に住むことを許された。
プルッフ大使は、最初のオランダ外交使節は出島で誕生したと説明する。「出島の商館長はカピタンと呼ばれていました。カピタンは毎年、将軍に貢物を送るため長崎から江戸まで長い旅をすることになっていました」。大使館は、1609年に徳川家康がオランダ船の通航とオランダ人の安全な国内居住を許可した朱印状の写しを所有している。

鎖国の間、日本に入ってきた洋書の大半がオランダ語で書かれていたため、西洋の最新の科学技術や医学を学びたい武士たちの間で蘭学がブームとなった。その結果、日本がようやく開国した1850年代には、日本人が話せるヨーロッパ言語は事実上オランダ語だけであった。
「オランダと日本の歴史の中で、私が一番好きな話の一つはハリス条約についてです」と、プルッフ大使はにっこり笑いながら、1858年のハリス条約、つまり日米修好通商条約について言及した。「この条約が日本語、英語、オランダ語で書かれていると知った時は、ほとんど信じられませんでした。さらに驚いたのは、法的拘束力があるのはオランダ語版だと考えられていたことです!」
現代の東京に建つ歴史的オランダ大使館
オランダ大使館は、1880年代に外交官だったヨアネス・ヤコブス・ファン・デル・ポット氏が土地を選び、入手して以来、現在の場所にある。当時、芝切通(現在の芝公園)の高台にあった大使館からは、東京湾と増上寺の絶景が望めた。
現在、大使館の近くには東京タワーがある。大使館の現代的な建物は出島の形を模してデザインされ、魅力的な曲線を描いている。しかし、本当に貴重なのは大使公邸である。1923年の関東大震災で倒壊したのち、1928年に再建された公邸は、東京に現存する当時の建築物の中で最も優れたものの一つである。

「この公邸の100周年記念を迎えられることを、妻も私も本当に楽しみにしています」とプルッフ大使は言う。「東京の近代史を見守ってきたこのような美しい建物に住むことができるのは、とても光栄なことです」
プルッフ大使は、積極的に外に出て、東京を自ら見て回るようにしている。「オランダには、スケールの点で東京に匹敵する都市はありません。しかし、東京の魅力は、これほどの大都市でありながら、田舎にいると感じられるような静かな場所がたくさんあることです。東京は、きれいで安全で楽しく、誇れる街なのです」
日本とオランダ:子どもたちのためのより良き世界に向けて
日本とオランダの間には長きにわたり築き上げてきた強い信頼関係があり、両国は今後も機会を逃さず、将来の課題に立ち向かいながら、共に前を見続ける。
「私たちに共通しているのは、子どもたちの将来のために、より良い世界を築いていきたいという思いです」と、プルッフ大使は言う。「両国は互いに、革新的・実用的で優れたインフラで知られています。オランダは、日本と同様に農業、園芸、水管理、グリーンエネルギー、半導体、健康などの分野で特に進んでいるので、官民問わず、多くの点で日本のパートナーとの協力が可能だと感じています」
オランダでは、小規模企業の振興に関してスタートアップやスケールアップが非常に活発に行われている。プルッフ大使は、オランダの企業が日本市場に参入するのは、文化や言語の点で初めは難しいかもしれないが、それだけの価値は十分にあると考えている。

2025年大阪万博が間近に迫る中、プルッフ大使とそのチームは、日本にとって歴史的なイベントに積極的に参加しようと懸命に取り組んでいる。「前回の万博は、日本の新たな1ページを開いたと思います。私は、今年の万博もそうなることを確信しています」と、大使は言う。
大使は、忙しいスケジュールにもかかわらず、積極的に日本国内を見て回ろうとしている。「すでに長崎には、出島を見に行ってきました。大使として、駐在する国の中を実際に見て、できるだけ多くのことを学びたいと思っています」と説明する。
近年、オランダから日本への観光は大きなブームになっている。「妻と私が日本に派遣されることに決まると、私たちの友人の半数はすでに日本に来たことがあると言っていました」と、大使は微笑んだ。「残りの半数は、できるだけ早く私たちに会いに東京に来ると言っています」