銀座で守り続ける伝統の「江戸前鮨」へのこだわり

 日本の食文化を代表する鮨。なかでも12年連続でミシュラン三ツ星を獲得し、世界にその名を知られる名店「すきやばし次郎」は、訪日外国人を含めて予約が途切れることがない。銀座でその味を守り続ける店主の小野禎一(よしかず)氏に、鮨の魅力と味、技へのこだわりを聞いた。

オバマ元大統領も激賞した味

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匠の技を目の前で見ながら味わえるのも楽しい

 東京の中心ともいえる銀座ですきやばし次郎が開店したのは1965年。7歳から料理旅館で奉公し、戦後、日本料理の店で修行した後に25歳で鮨職人となった小野二郎氏が40歳で独立して構えた店だ。店名は、数寄屋橋交差点の近くだったことと、二郎より次郎のほうが看板として見栄えがよかったことに由来する。

 江戸時代から続く江戸前の鮨の伝統を守り、独自の工夫とこだわりで鮨職人の腕を磨いていった二郎氏の匠の技は食通の間で評価が高まり、2011年には二郎氏に密着したアメリカ製作のドキュメンタリー映画『二郎は鮨の夢を見る』も世界で注目された。その映画を見ていたといわれるバラク・オバマ元米大統領が現職時に国賓として来日した2014年、安倍晋三首相(当時)とともに来店し、その味を絶賛したことも大きな話題となった。

 今年で100歳を迎える二郎氏は、驚くべきことにほんの昨年まで店主として鮨を握り続けていた。その跡継ぎとして匠の技を継承しているのが、長男で現店主の禎一氏だ。

 「はじめから鮨職人になろうと思っていたわけではなく、高校生のころはカーレーサーを目指してライセンスも取得しました」

 そう語る禎一氏が鮨職人の世界に入ったのは、父親の「そんなものでメシが食えるか!」というひと言だった。

 「貧しい時代に育ち、幼いころ奉公に出された父にとっては、食べていけるよう手に職を持つことの大切さが骨身に染みていた。それに私は長男。やはり跡を継がせたいという思いもあったのでしょう」

 東京・赤坂の日本料理店での修行を命じられた禎一氏は5年たって父に呼び戻され、鮨職人となるべく徹底的に仕込まれる日々が始まった。

 「店にはすでに何人か弟子がいましたが、私と弟に対して特に厳しかった。言葉で教えられることはなく、見て覚えろ、見て技を盗めと。怒鳴られることなど日常茶飯事。弟子以上に厳しくしなければ弟子たちから『やはり親子だから甘いのだろう』と見られて示しがつかない。そんな親心があったのだと後に知りました」

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元日米首脳もこのカウンターで舌鼓を打った

仕事の9割5分は下準備

 鮨には漢字でも寿司という表記があり、江戸前という表現もあるが、その違いについて禎一氏はこう説明する。

 「寿司とはバッテラや棒寿司など箱や木枠で押し抜いた押し寿司のことで、冷めても美味しく、関西が主流。対して、江戸前鮨といえば握り。シャリ(酢飯)に新鮮な魚介類を乗せて握り、ハケで煮切り醤油をつけて出し、すぐに食べていただく。もともと江戸時代には職人が握りを桶に入れて売り歩き、のちにそれを屋台の立ち食いで出すようになります。江戸湾(東京湾)で取れた魚介を使っていたから、あるいは関西の押し寿司に対して江戸の食べ方だから、などの理由で江戸前と呼ばれるようになったそうです。鮨という漢字も魚偏に旨いと書くわけで趣がありますね」

 その江戸前鮨の店、すきやばし次郎最大のこだわりは、シャリにあるという。

 「鮨とは基本的にご飯を食べていただくもの。だから米そのものも吟味していますが、最も大切にしているのはシャリの温度。だいたい40度、人肌に近いくらいで握れるように準備をします。それにネタを乗せ、箸で持っても崩れない程度に空気を含ませて軽く握る。この握り具合が職人の技で、飯粒がつぶれずふわっとした食感で口の中でハラリと崩れ、ネタとシャリが同時に喉をすうっと通っていけるようでなければだめ。シャリの量も、年配の方や女性の方などは食べやすいように少なめにするなど、目の前で召し上がっているお客さまの様子を見つつ塩梅しています」

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 このシャリの味の決め手となるのが酢。二郎氏は酢の調合にこだわり抜き、独自の味を完成させた。その技を受け継ぐ禎一氏は食品メーカーと協力し、父が完成させた味のオリジナル酢を市販用に開発して、今もバージョンアップしている。

 そしてもちろん、ネタとなる魚介の下準備にも独自のこだわりがある。たとえば鰹。他店ではガスコンロの火やバーナーであぶるのが一般的だが、すきやばし次郎では二郎氏の代から店内でわらを使ってあぶる。

 「もともと鰹って皮目が生臭い。それをバーナーであぶれば簡単ですが、青臭さは抜けない。でも、わらで焼くと煙が立っていぶされ、皮目の匂いも消えてほんのり燻製の香りもして美味しくなる。当然、わらを使う方が手間ひまはかかりますが、それが職人の仕事です。シャリにしろ魚介の仕込みにしろ、鮨職人の仕事の9割5分は下準備なのです」

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数寄屋橋交差点近くの古い雑居ビルの地下1階にある

銀座から鮨の魅力を発信する意義

 禎一氏のこうしたこだわり、技のすべては父から受け継いだものだ。だから鮨職人となって以来、常に父の背中を追い続けてきた。鮨の神様とまでたたえられる父・二郎氏に追いつくことが目標だった。

 「今でも追いついていませんね。映画のタイトル通り、父はいかに美味しい鮨を出せるか夢に見るそうです。そしてそのアイデアを起きたらすぐに試す。私にはそんな経験などいまだありません。半年くらい前にようやく、世界を見回してお前ほどできる鮨職人はいないだろう、と父に褒められましたが、私自身は生涯、父に追いつくことはできないと思っています。私が1歩進んでも父は常に100歩、1000歩も先を歩いていますから」

 銀座は東京の中心だからこそ日本文化の中心でもあり、一流の店が多く海外からも目や舌の肥えた人が集まり注目される街だと禎一氏は考える。だからこそ、この地から文化として本物の鮨の魅力をもっと発信し続けねばならないとの思いを強く持っている。

 そんな禎一氏が常に心に刻んでいるのは、昨日よりも今日、今日よりも明日、もっと美味しい鮨を握れ、という父の言葉。その金言こそがこれからも目標になるし、弟子たちにも教えていかねばと考えている。

 「職人の修業とは我慢を覚えること。季節の魚はどうおろし、さばき、下ごしらえをすれば美味しくなるか。1年でその季節しか味わえない魚は、10年修行しても10回しか経験できないわけです。覚えるのは簡単じゃないからこそ、常に一生懸命考え、つらいことを我慢しながら修行する。そういう本物の鮨職人を育てていくこともこれからの目標です」

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弟子たちは皆、独立を目指して修行に励む

小野禎一

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1959年生まれ。19歳で日本料理を、24歳から父のもとで鮨職人の修行を始める。父不在のときに来店した世界一のレストランと称されたスペイン『エル・ブジ』の料理長フェラン・アドリアやフレンチの皇帝と崇められるジョエル・ロブションなどにその技を激賞された。

すきやばし次郎

https://www.sushi-jiro.jp/

取材・文/吉田修平
写真/藤島亮