金メダリスト高橋尚子直伝、東京2025世界陸上の楽しみ方
東京で世界の頂点を極める大会が開催
世界のトップアスリートが集結する、東京2025世界陸上競技選手権大会の開幕が間近に迫っている。高橋氏と世界陸上の関係は深い。
高橋氏が選手として初めて日本代表に選出された1997年のアテネ大会では、5000メートルに出場し入賞には及ばなかったが、世界の大舞台に立つという貴重な経験になったという。
続く1999年のセビリア大会は、マラソン代表として選出され優勝候補に挙げられていたが、故障のため本番で走ることはかなわなかった。
「トレーニングは完璧にこなせていたので無念でなりませんでした」
トップアスリートは、トレーニングで限界まで自分を追い込むことから常に故障のリスクを負う。しかし、どれだけ良いトレーニングを積んでいたとしてもスタートラインに立てなければ意味がないと学んだ高橋氏は、シドニー五輪に向けて細心の注意を払って準備を整えた。その結果が、「すごく楽しい42キロでした」という言葉につながった。
世界のトップアスリートの魅力
東京2025世界陸上にも、そうした最大限の努力を続けてきたトップアスリートたちが集結する。高橋氏が最も注目する選手の一人として挙げるのは、男子棒高跳の世界記録保持者、アルマント・デュプランティス(スウェーデン)選手だ。
「2024年のパリ五輪でデュプランティス選手が世界新記録を出したとき、私はその場にいました。あれは一生の宝になる名シーンの一つです」
そのとき、スタジアムでは棒高跳以外の全競技が終了し、8万人近い観客がデュプランティス選手に注目していた。優勝を決めた彼は、たった一人で世界新記録に挑んでいた。
「棒高跳は、3回連続で失敗するまで挑戦ができます。デュプランティス選手は世界新記録となる高さに2度失敗し、次を失敗したら競技終了という状況になり、スタジアムは静まり返っていました。選手にとっては最高にプレッシャーがかかる場面です。そこで彼は、見事跳躍を成功させました。その瞬間、観客は大歓声! あの興奮を忘れることはできません。この大会でもこんなふうに、アスリートと観客が一つになる瞬間がきっと訪れると思います」
高橋氏はもう一人、女子走高跳の世界記録保持者、ヤロスラワ・マフチフ選手(ウクライナ)を挙げる。
「東京五輪では銅メダルだった彼女が、その後めきめき強くなったのは、ウクライナのことを世界中の人たちに知ってもらいたい、またウクライナの人に元気を届けたいという強い思いがあるからだと感じます」
大変な状況の下で、真摯に競技に取り組む姿が胸を打つ。試技の間には持ち込んだ寝袋に入って休息する姿から「眠り姫」と呼ばれることもある選手だ。
注目の日本人選手を紹介
今大会で注目している日本人選手についても聞いた。数多く挙げてくれた選手の中から2人を紹介する。一人は、男子20km競歩に出場する山西利和選手だ。
「今年2月に世界新記録を出して、日本人選手の中ではパリ五輪で金メダルを獲得した女子やり投の北口榛花選手と並んで金メダルに一番近い選手と言っていいと思います。パリ五輪の出場を逃してから厚底シューズにしっかり適応して這い上がってきました」
女子マラソンでは、小林香菜選手に注目だ。
「彼女は早稲田大学で、陸上競技部ではなくランニングサークルに所属していたのですが、もっと本格的にトレーニングがしたいと卒業後、実業団で競技を続け、わずか一年で大きく飛躍しました。彼女は非常にピッチが速い選手ですが、ピッチが速いと一歩にかかる衝撃が少ないため長い距離を走っても足が持つというメリットがあります。後半までしっかり先頭集団について勝負してもらいたいと思います」
スポーツの社会的意義
出場する選手の価値は記録や順位だけではない。
「世界陸上に自国の選手が出場するだけでも、大きな意味を持つ国があります。例えば、女性の社会進出が進まず競技に取り組むことが難しい国では、実力の高い女性選手の存在が、女性全体の地位向上につながります。スポーツへの関心が低い国では、自国の選手の活躍が国民の運動習慣を大きく変えるきっかけになります」
スポーツは社会を変革する力を持つのだ。
現役時代は「きょうの練習をどうこなすかに必死で、周りを見る余裕がなかった」と話す高橋氏だが、今回は選手たちの活躍を伝える立場にある。
「心がけるのは、大会をきっかけにその選手のことを好きになって今後ずっと応援してもらえるようになること。取材も行っていますから、人間的な魅力にも触れていきたいと思います」
選手にとってこれほどありがたいサポーターはいないだろう。
そんな高橋氏が訴えるのが応援の楽しさだ。
「パリ五輪では、デュプランティス選手が跳躍するときもそうでしたが、スタート前など静かにするときは静かにして、盛り上げるときは盛り上げるという応援が本当に見事で、大会は選手と観客が一体となって作り上げるものだと実感しました。応援は、最後の1ピース。それがハマることで選手にとっても観客にとっても最高の大会になります」
ランナーにとっても魅力あふれる街、東京
東京の街を走るマラソン競技でも同様だ。東京でのマラソンを3度経験している高橋氏も「東京で走ったマラソンではうれしい思いも悔しい思いもしましたが、いつも私を支えてくれたのは観客の大きな声でした。途中で失速したときも、応援があるからもう少し頑張ろうと思えました」と話す。
ランナーにとって東京は、魅力の多い街でもある。
「マラソンレースでは、応援の多さだけではなく、道が広くてきれいなので足元を気にせず集中して走ることができます。また目印になる建物が多いので、あそこまで頑張ろうとモチベーションにもつながります」
高橋氏は今も東京でランニングを楽しんでいる。
「好きなのは、隅田川沿いです。築地から北千住の方まで信号が少なく、止まらずに走り続けられるのがいいですね。東京は代々木公園など公園も多く、緑を感じながら走る場所もたくさんあります。皇居周辺も多くの人が楽しそうに走っています。以前、南米のある国の人から『東京では女性が一人で走れるのですね』と驚かれたことがありました。誰もが自由にスポーツを楽しめる東京の安全な都市環境が、とても印象的だったようです」
この大会では「東京2025世界陸上サステナビリティプラン」が策定されており、気候変動・エネルギー、暑さ対策や多様性、陸上への関心、ウェルビーイングなどに配慮した準備・運営が行われる。
「社会問題の解決を視野に入れて、大会を開催することは重要な意味を持ちます。その姿勢が、多くの人に力強いメッセージとして伝わります」
東京2025デフリンピックにも期待
11月には東京2025デフリンピックも開催される。
「世界陸上で盛り上がった熱をデフリンピックにつなげたいですね。立場の異なる人を互いに受け入れることでより豊かな共生社会が広がると思います」
34年前の東京世界陸上は、高橋氏にとって同学年の友人が出場したことで「それまで夢でしかなかった世界陸上やオリンピックの舞台に、自分も立ってみたいと考えるきっかけになった大会」だった。
「東京2025世界陸上の開催によって東京が、夢が生まれる場所、夢が現実になる場所になることを願っています」




