人力車俥夫とラジオDJの二刀流が切り拓く、浅草の新しい顔
アナウンサーの夢が連れてきた、浅草の人力車俥夫という道
東京の下町・江東区で生まれ育った関森ありさ氏は、大学生の頃、テレビ局のアナウンサー採用試験を受け続けていた。北海道から沖縄まで試験を受けて歩く日々だった。だが、何度挑戦しても内定は得られなかった。そんな時、アナウンサースクールの先生に「人力車でも引いてみたら? 人を笑顔にする仕事という意味では同じでしょ」と声をかけられたことが、人生を大きく動かすことになる。
「周りのみんなが輝かしい自己PRを持つのに対し、私は何もありませんでした。『今まで何をしてきたのだろう』と落ち込んでいた時に、先生がくれたのがこのアドバイスでした。『女性も引けるの?』と半信半疑でしたが、何がなんでもアナウンサーの夢を叶えたかった。だから、その言葉を信じて、浅草の人力車の会社に飛び込みました」
俥夫の仕事は、ただ車を引くことではない。浅草の歴史をガイドし、店の紹介だけでなく、寺院や神社では参拝方法を伝え、時にはフリートークで仕事の悩みや恋愛相談まで受ける。「お客様の心に残る思い出をつくる仕事」だという。
「重量約90キログラムの車体を扱えるようになるまで、研修に2〜3カ月ほどかかります。力ではなく、てこの原理で引く技術を身に付ける必要があるのです。運動経験が少なかった私は、人力車を扱えるようになるまでかなり苦戦しました。研修中、180万円もする人力車を壊したこともあります。浅草店のスタッフもお手上げ状態だったため、姫路店にいる天下車屋の社長に直談判し、現地で1カ月、浅草で3カ月間の猛特訓を積んで、ようやく引けるようになりました」
こうして人力車を引けるようになった関森氏。しかし、ここからが本当の意味での困難だった。
「アナウンサーを目指していたにもかかわらず、雷門前でお客様にお声掛けしても、なかなかご乗車いただけませんでした。人力車の魅力すら伝えられていないことにショックを受けて落ち込みました」
そんな時、所属する天下車屋の社長に、「相手に興味を持ちなさい。会話の主導権を自分が握ろうとしなくていい」と言われ、雷門で立ち止まってくれた人と、ただ会話をすることから始めた。
「どうしたら目の前の相手に楽しんでいただけるか。これを考えるようになってからは少しずつお客様と自然に会話ができるようになりました。その積み重ねが、今のラジオ局のDJとしての仕事にも生きていると思います」
話す相手は違っても、寄り添う心は同じ
関森氏の人生のもう一つの転機は、祖父の入院。病室でラジオを聴く祖父を見て、「私も声で寄り添える仕事がしたい」と思ったところ、偶然、地元の江東区にあるレインボータウンFMがDJを募集していた。
「採用面接の時に、『採用条件として人力車を続けること』と言われたのがきっかけではあるのですが、自分でも人力車俥夫のトークがラジオに生かせると思って二刀流の道を選びました」
まずは裏方のディレクターの仕事から始め、2年目には自分の番組を担当するように。人力車とラジオという全く異なる仕事に見える二つは、実は「相手に寄り添う」という点でつながっていた。
「初めて自分の番組を持たせてもらった時、局の方から『自分の話ばかりではなくリスナーに寄り添うことが大切。目の前に人形を置いて、その人形に話すように話し掛けることを意識してみて』と言われたことがあります。これは、目の前のお客様に寄り添う人力車の仕事にも共通していました。人力車では目の前にいるお客様、ラジオでは電波の向こう側にいるリスナーに、どう楽しんでいただくか。人力車もラジオも、『対あなた』に向けて話すのは変わりません。両方に共通しているのは、相手に寄り添う姿勢なのですよね」
そして2025年11月。大学生の頃に夢見たテレビの世界に、別の形でたどり着いた。
「テレビのバラエティ番組に、浅草の人力車店長・ラジオDJとして出演させていただきました。諦めずに続ければ、夢は叶うのだと実感しました」
俥夫だからこそ知る「浅草の本当」を案内する
関森氏が人力車のガイドで必ず伝えるのは、歩くだけでは気付けない浅草。立て看板がほとんどないこの街には、数えきれない「日本の最初」が潜んでいる。近代日本のさまざまな「はじまり」が東京に集まってきた歴史があり、その中でも浅草は文化・娯楽・技術の入口として発展してきた土地だ。
「日本最初のバー『神谷バー』、日本初の常設映画館『電気館』、日本初の電動式エレベーターが設置された『凌雲閣』の記念碑など、歴史の断片が街中に隠れているのです。そういうスポットを海外の方に伝えるとすごく喜んでくれて、こちらまでうれしくなります」
さらに、定番の東京スカイツリーにも俥夫しか知らない見どころがある。それが「金色のスカイツリー」だ。
「晴れた日に、アサヒビール本社の金色の外壁に反射するスカイツリーが、マンションの横から顔を出すように現れる位置があるのです。人力車を引きながら見つけた時は、お客様と一緒に感動します」
外国人観光客には、天下車屋のホームページや電話、Instagramからの事前予約を推奨しつつ、雷門前での当日乗車でも丁寧に案内をしている。
そうした外国人観光客と接していると、東京に対する意外な一面に気づくことがあるという。最先端の都市というイメージとは裏腹に、浅草には古い路地や人情味がそのまま残っている。その意外性に驚き、むしろそこに東京の本当の魅力を感じる方が多い。関森氏はそのような声に触れるたび、浅草の案内が単なる観光以上の意味を持つのだと感じている。
「もちろん、晴れの日だけでなく、雨の日もご案内しています。雨だと観光気分が下がるかもしれませんが、人力車で巡ると雨の浅草の街も情緒があって美しい。天候が悪い時だからこそ、普段とは違う東京のもう一つの顔に出会い、『浅草に来てよかった』と思っていただけたらうれしいです」
東京もまた、関森氏のキャリアと同じように、思いがけない出会いの中で意外な一面と魅力をあわせ持つ都市だ。
浅草に恩返しをしながら、未来の俥夫を育てたい
江東区で生まれ、下町気質の中で育った関森氏。浅草の俥夫になってから、改めて地元の延長線上にある下町の豊かさを知ったという。
「人力車を走らせるとお店の人が出てきて挨拶を交わしてくれます。そんな温かい日常は下町ならではです。浅草は小さい頃から何度も訪れていた街ですが、俥夫の仕事をしているからこそ、初めて知った一面も多くあります。自分が知って驚いた雑学なども、お客様にご案内するようにしています」
俥夫になってから8年。現在、店長として採用・育成も担当している。特に苦戦したのは、若い俥夫の育成だ。デビュー前に辞めたいと言われ、落ち込んだこともある。そんな時、社長の言葉が支えになった。
「『教えるのは偉そうになる瞬間がある。だけど、教える勉強は、教える相手がいてこそ成り立つ。教える側も教えられる側も勉強になるからお互いさま』という言葉を掛けてもらいました。私自身もまだ勉強中ですが、相手に歩み寄ってもらおうと思わず自ら歩み寄って距離を縮め、少しずつ前に進んでいきたいです」
最後に、未来について聞くと、迷わずこう返ってきた。
「浅草の街から私も元気をもらっているので、少しでも恩返しがしたいと思っています。女性店長として、人力車の扉を開く後輩たちに、この仕事の楽しさを伝えていきたいです」
関森ありさ
レインボータウンFM
https://885fm.jp/写真/井上勝也





