「想像のできない人生を生きたい」 脳外科医が、デザイナーへの道も目指した理由
脳外科医であり、ファッションデザイナー。
「ゴチャ混ぜ」のキャリアを歩む"Drまあや"さんを貫くのは「死ぬその瞬間まで、面白く生きていきたい」という思いだ。
一方で、見る人を幸せにするカラフルな作品たちには、コンプレックスも反映されているという。
みんながもっと自由に、自分の選択した道を堂々と歩んでいくためにはどうしたらいいのかーー。自身の経験から感じてきたことを聞いた。
花柄が苦手な理由「恐ろしさを勝手に感じて...」
私、花柄の服が苦手なんですよ...。小花柄だと特に、小花の持つ「可愛い」というイメージに、「あなた、着こなせるの?」って問われてるような恐ろしさを勝手に感じてしまって。
そこから生まれたのが、私のお腹まわりの脂肪を撮ったCT画像のテキスタイルを使った服です。画像を並べると花柄みたいになるんですよ。「私ならではの花柄」を作ることで、花柄を乗り越えたんです。
私の作品がカラフルなのは、カラフルなのが単純に好きなのもありますが、コンプレックスの裏返しだと思います。
普通の格好をしていたら人目にとまらない「透明人間」になってしまうけど、ひとたびカラフルな服を着れば、1人の人になれる。そんな感じがするんですよね。「おっ!、なんか派手な人が歩いてくるぞ」って感じがするでしょう。
日本社会では女性に「容姿」を過度に求める傾向がありますよね。私は独身ですが、独身の人が周りに言われがちな「結婚してないんだね」的な言葉は、人から言われたことがありません。私が、そもそも日本社会で女性に求められがちな「容姿」ではないからだろうな、と思っています。
子どもの頃から、育ててくれた祖母に「お前は器量がよくないから、手に職を持ちなさい」と言われていました。祖母からはずっと否定的なことを言われて育ちまして、今でいう「毒親」ってやつですね。
当初、祖母に否定的なことを言われて、「え?どうしてこんなこと言うの?」と疑問も持っていたんですけど、中学校に入ると、スクールカースト的なものが世の中に存在することも知り、祖母の言葉の意味が見えてきて、「自分の力で生きていけるように、医学部に行こう」と思いました。
祖母なりの、いずれ祖父母が先にいなくなり、残された孫が食いっぱぐれない人生を歩んでほしいという希望と、この世の中はいろんなことが起こり、厳しいことも降りかかってくるという「超現実」から目をそらさずに生きてほしいという教えだった、と把握できるようになったわけです。
学生時代から見た目のコンプレックスが強かったことが、作品に出ているのだと思います。
ただ、必ずしも悲観的に思っているわけではないんですよ。子どもの時に既に見えていた景色があることで、「こうあるべき」という社会通念から自由になれたんです。
祖母が購入していた女性週刊誌「女性自身」が子どもの頃の私の愛読だったんですけど(笑)、芸能人だって私生活では借金や家族の問題などでものすごい苦労をしているのを知りました。自分の両親の離婚から、男女が険悪になることがあるのも知っていました。「女性は結婚して、子育てするのが幸せだ」みたいな「常識」にとらわれちゃいけないと気が付いたんです。
もちろんこれは私の人生であって、人によって色んな経験や考え方があると思いますし、常識そのものも変わって行くと思います。ただ私にとっては、自立は自由へのパスポートになりました。
「面白く生きる」が、私の人生の「軸」
もう1つ祖母から言われたことを話しますね。
小学校に入る時に、祖母から「家庭環境が複雑だから、いじめられるかもしれない。目立たないように、教室の隅っこにいなさい」と言われたんです。
これも、祖母はいじめられたらかわいそうだ、と私のことを思って、なんですよね。その言葉から子どもなりに、どうしたら楽しい学校生活が送れるのか、考えてみた結果、「面白い人になれば、みんなに認められる。いじめられることもないだろう」と考えました。モノマネをしたり、話にオチをつけたりして、教室で「面白い人ポジション」を目指しました。
「面白く生きる」という考えは、私の人生の「軸」になっていきました。みんなと、わきあいあいと楽しく過ごせて、学生時代の友人ともずっと仲良しですし、仕事でも敵を作らない努力をしています。
この「面白く生きる」という軸が、医者でありながらデザイナーにも挑戦することの根底にあります。
「想像のできない人生」を生きたい
ファッションの道を目指したのは、脳外科の専門医になるという目標を達成した後のことでした。
ある時、医者のキャリアでうまくいかないことがあり、ボーッと山手線に乗り続けていました。一生、手術をし続け、75歳ぐらいで病院にパート勤めをしている時、その病院の看護師さんが「今日、先生が来ていない」と気がつき、孤独死している自分が見つかる...。そんな将来が見えた気がしたんです。
「予測できちゃう人生」を歩んでいることに恐怖を感じました。「想像のできない人生」を私は生きたかった。
脳外科医の仕事で、亡くなっていく方々を目の前で見てきて、「人は必ず死ぬ。いつ私がそうなってもおかしくない」と実感していたこともありました。
心の片隅にあった、ファッションへの懐かしい思いが蘇ってきて、「ファッションをやろう!」と思い立ったんです。
私の優先項目は「面白いことをやる」ですから、「脳外科医でありデザイナー」だなんて、世界で1人かもしれないじゃないですか。なんて面白い人生なんだろう!と思っています。
今は医者とデザイナーという2つの仕事があることで、どっちの仕事も頑張れ、「心のバランス」が取りやすいです。片方の仕事のストレスを、もう片方の仕事で緩和できるんですね。
自分の軸と優先順位が何なのかさえ分かっていれば、新たな挑戦は何歳からだっていい。ゴチャ混ぜのキャリアも全然あっていいと思っています。
個人の選択を認めあえる社会に
そのためにも、「人の選択を、周りが認めない」という社会の空気は変わってほしいですね。昨今、副業なども認められる環境があり、選択肢が増えてきていると思うのです。そうなってくると、次は、個々に選んだ道を、周囲のみなさんが認めてあげることが大事ですよね。本業一本だけもよし、二足のわらじもあり、仕事よりも家庭を優先させる人生もあり、もちろん家庭一本もあり!ですよね。
女性の事を例に挙げると、働く既婚女性は「ママなのに家事をやってない」と言われ、昇進すれば「あの女が役員か」と陰口を言われる。一方、専業主婦という選択をし、頑張っていても、「楽でいいね」という目を向けられることがあります。家事は大変な仕事なのに、ですよ。生きにくいじゃないですか。そんな中で、一度も結婚していない女性は、さらに厳しい目を向けられている、もしくは向けられているように思って生きていたりするんですけどね。
頑張っている人をまっすぐに認め、違う道を歩み始めた人を応援し、個人の選択を認めあえる。そういう社会になってほしいです。
死ぬその瞬間まで、面白く生きていきたい
性別問わず、色んな意見を吸い上げる力のある人が上に上がっていけば、意見を言い合えて、他者を認めあえる、面白くて生きやすい社会になると思うんですよね。
そういう意味で、社会を変えるという強い意志を持った女性たちが、もっと表に出てきてほしいです。働く女性が増えましたから、私が言うまでもないですが、女性たちにはもっと上を目指してほしい。管理職を目指して、上に立って、意見を言える立場になってほしい。色んな経験をしてきた女性たちが、下の世代の意見をすくい上げていけば、社会の変化のスピードはもっと速くなると思います。
私自身は、世界で活躍できるデザイナーを目指していきます。2019年にはカナダ・バンクーバーでショーをやりました。すごい好評をいただき、「楽しんでもらえてよかった」と思いました。
「面白いものを作っている人がいる」って、世界で認められるデザイナーになりたいです。死ぬその瞬間まで、面白く生きていきたいと思っています。
Drまあや 脳神経外科専門医/ファッションデザイナー
1975年、東京生まれ、岩手県育ち。2000年に岩手医科大学医学部卒業後、慶應義塾大学病院の脳神経外科に入局し、脳神経外科医として勤務。現在は東京都のクリニックと北海道の病院に勤務している。
ロンドンのセントラル・セント・マーチンズ芸術大学で学んだのち、2013年に事務所「Drまあやデザイン研究所」を設立。個展やショーの実施のほか、作品のネット販売もしている。著書に「カラフルデブを生きる」(セブン&アイ出版)。
【Twitter】@Dr_maaya_labo 【Instagram】dr.maaya.labo 【Facebook】Drまあやデザイン研究所
文/湊彬子 (Akiko Minato) ハフポスト日本版ニュースエディター