ロイ・トミザワ - 1964年東京オリンピックの莫大な遺産:1964年が日本の最高に輝いた年である3つの理由

この寄稿文はThe Asia-Pacific Journal: Japan Focus.に掲載された記事を元に執筆されたものです。
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 1964年。それは日本が最高に輝いた年であった。その最高の年、その最高の日、何が日本を輝かせたのだろうか。
(c)Photo Kishimoto

「オリンピックだ!」

 映画『ALWAYS三丁目の夕日』三部作は1958年から1964年にかけての、東京の下町を舞台に、住人どうしの絆が深いとある地区の2つの家族の生活を描いた作品だ。

 時代背景が1964年の第三作では、主人公である売れない小説家・茶川が自宅の小さな白黒テレビで1964年東京オリンピック大会の開会式を嬉しそうに見ている。そんななか、妻は向かいの自動車修理工場の鈴木オートの大きなカラーテレビをみんなで一緒に見る方がもっと楽しいし、近所付き合いは大切にしなきゃ、と茶川を説き伏せる。通りに出ると、突如ジェットエンジンの轟音が鳴り響き、2人は驚いて空を見上げる。なんと頭上で航空ショーが始まろうとしていた。茶川は外に出て一緒にショーを見ようと近所に声をかけた。

 鈴木家の人たちも通りに出てくると、真上に広がる青く澄み切った空に5機のジェット機が五輪マークを描き出していた。ショーの直接の観客は数キロ先の国立競技場に詰めかけている7万人もの観客、大会関係者、アスリートだ。だが、このテクノロジーと芸術の強烈な組み合わせは、テレビでショーを目撃した何千万人もの日本人の心にも、ちょうど空に限界がないように、自分たちにも限界など存在しないことの象徴として突き刺さった。

 それこそ無一文で戦争から帰還して自動車修理工場を立ち上げた鈴木は、多くの日本人同様に自分や家族が、ここにいたるまでにあまりに多くの痛みを乗り越え、あまりに多くのものを犠牲にし、懸命に仕事してきたことに、胸がいっぱいになった。

戦争でこの辺りは一面焼け野原になった。食べるものがなかった。それが今は...これを見てみろ。周りにはたくさんのビルが建っている。それに眼前にそびえ立つのは、高さ世界一の東京タワーだ。そしてついにオリンピックだ!

 そして、鈴木は家族や近隣の人たちの中心に立って確かに日本は復活したのだと、高らかに雄叫びを上げたのだ。

1964年、日本が最高に輝いた年である理由

 どの年であろうと、ある年を一国の歴史上最高に輝いた年であると称すれば、誇張な言い回しになる。だが、196410月に日本の東京で開催された第18回オリンピック競技大会が、猛スピードで進む経済成長の最中に人々を立ち止まらせ、過去を振り返らせ、皆で喜び祝うひとときを日本国民にもたらしたということは言えよう。 

 57年前に開催された1964年東京オリンピックの最大の遺産は、当時の日本人が感じた、3つの誇りだ。

  • 偉大なる挑戦―第二次世界大戦の終戦はオリンピックのわずか19年前のことで、当時この国は経済的にも心理的にもズタズタだった。
  • 前例なき達成 ―1964年東京オリンピックの際に日本は世界中からその効率の高さ、モダンさ、友好的な国民性を称賛された。
  • 万人が支持したオリンピック―テレビが世界の生の姿を世界中の居間に届けるようになりつつあった時代背景の下、あらゆる人が日本の達成を誉め称えた。

偉大なる挑戦

 ジョン・ダワーは著書『敗北を抱きしめて』のなかで、日本の建築物などの物理的な風景、産業インフラ、そして人間が徹底的に戦争で破壊された様子を記述している。ダワーによると、爆撃を受けた都市は66に上り、人口の30%が住居を失い、日本の船舶の80%、産業用工作機械の33%、自動車と列車の25%が破壊された。

 日本人には生きていくために最低限必要な食料、住居、医薬品が不足していた。将来の保証も何もなかった。家族は生きていけるのだろうか?日本は復興できるのだろうか?多くの人が不安を感じていた。

 広島と長崎への原爆投下後の1945815日、昭和天皇の声が日本国民に向けて初めてラジオで流された。昭和天皇は国民に降伏して、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」ことを求められた。

 だが、そのわずか19年後に、昭和天皇は1945年の空襲後の焼け野原からは想像もできない現代的な都市で、平和と団結の象徴であるオリンピックの開会を宣言された。

前例なき達成

 胸に大きな赤い円があしらわれた白のタンクトップ姿の男性。その情景は、実にさまざまな感情を呼び起こしたことだろう。1964年東京オリンピックの開催地へと向かう聖火リレーでは、紛れもなく日本の日の丸がアジアを駆け抜け、アジアの道を切り開いた。

 1964年の821日から96日まで聖火はユーラシア大陸を走り抜け、スタート地点のギリシャからトルコ、レバノン、イラン、パキスタン、インド、ミャンマー(当時はビルマ)、タイ、マレーシア、フィリピン、香港、台湾を経由して、日本へと向かった。

 日本がこれらの国のいくつかに軍隊を進駐させていたのは、ほんの数十年前のことだった。日本はこれらの国のいくつかで戦争を行った。それでも、1964年には、日本はアジアの誇りとして称えられたのだ。

 「アジア初のオリンピックであることは全員が意識していました」。1964年大会で金メダルに輝いたインド・ホッケーチームのキャプテン、チャランジット・シンはそう述べている。   

 「あの時期、日本人は困難な状況を見事に乗り切りました。(戦後は)たいへんな荒廃状態でしたが、日本人は諦めてしまうのではなく、自力で立て直したのです。その点でオリンピックは実に素晴らしいショーになりました。世界の他の地域の人たちと同じように、アジア人だって見事にやってのけられるのだ、と世界に向けて示しました」

 イギリスの陸上競技チームのキャプテンを務めたロビー・ブライトウェルにとっては、1964年の東京大会はオリンピック史における分水嶺になるものだった。ブライトウェルは4×400mリレーの決勝でアンカーを務めて、逆転でチームに銀メダルをもたらしている。ブライトウェルによると、東京大会は「オリンピックを国際化した」という。

1960年のローマ大会までは、オリンピックは基本的にヨーロッパと北米の競技者のための大会と見られていました。しかし、東京はオリンピックを国際化しました。アジアにとっては歴史的な瞬間で、五輪マークのアジアを示す輪が、ようやく本当の意味で付け加えられたと感じました。

 1964年当時、日本は新興経済国だった。新たな目標はすべて新たな挑戦だった。当時の日本人には、どうやってやり遂げればよいかの予想は立たなかった。解決すべき問題に出くわしたら、何でも試し、利用できるリソースをすべて活用し、そして世界中から学んだ。

 また、来日したオリンピック選手が驚いたように、1964年当時にはもはや日本製品は安価で質の低い製品ではなかった。最先端の製品だった。

 ブライトウェルと当時婚約者だった(64年大会で2度の金メダルに輝いた)アン・パッカーは、他のオリンピック選手と共に英国海外航空の世界初のジェット旅客機「コメット」で東京に向かった。コックピットの中に入って、パイロットと談笑する機会が設けられたが、そこで日本についての質問がなされた。ブライトウェルは日本をよく訪れていたパイロットに、日本で何か買っておいた方がよいものがあるかどうか意見を求めた。

パイロットは、「うん、セイコーの時計はいい。素晴らしい時計を製造しているよ。映画撮影機やテープレコーダーも。トランジスターラジオは、1つ手に入れるといいよ。それとカメラ。君は眼鏡を掛けているから、コンタクトレンズも買うといいよ」と教えてくれました。そういう話だったので、ある日東京の眼科医の診察を受けて、翌日にはコンタクトレンズを受け取りました。日本人はすでに酸素透過性コンタクトレンズを製造していました。素晴らしいことです。最初のレースで、トラックがちゃんと見えました。

私たちはたいへん感銘を受けました。日本が重工業の工学技術に秀でていることは知っていましたが、アメリカのトランジスターやコンピューターを活用しているとはまったく理解していませんでした。日本の産業が技術志向の高付加価値製品へと移行しようとしている様子を目にすることができました。

 「彼我の差ということでは、我が国はまだ蒸気機関車に乗っていました」とブライトウェルは語った。

万人が支持した東京オリンピック

 1964年10月12日の月曜日に東京・代々木の選手村に荷物が届いた。荷物を開けると入っていたのは4500個の小箱。それらは、第18回オリンピック競技大会で日本にやってきた海外の出場選手全員に宛てたささやかな贈り物だった。厚紙でこしらえた小さなギフトボックスをアスリートが開けると、小さなだるまと1通の手紙が入っていた。

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 日本でだるまは、希望と幸運を表している。そして、底部が丸みを帯びているので、揺らしたり転がしたりしてもまっすぐ立った状態を維持する。その様子からだるまは忍耐の象徴でもあるとされる。また、日本の習慣では通常、両眼の部分に何も描かれていない白いままのだるまを受け取り、幸運や成功を追い求める道のりを歩み始めるときに片方の眼に黒い点を描き込む。そして目標を達成した暁には、あるいは卒業、結婚、出産などの人生の大きなイベントにさしあたった時に、もう一方の眼にも黒い点を描き込む。

 静岡県の「富士コンパニオン本部」と名乗る高校生のグループが、この張り子だるまを作って、選手村に送ってきたのだった。同封の手紙には、「この人形には日本全国のすべての若者と大人からの友好と親善を願うささやかな想いが秘められています」と記されていた。

 日本の状況は「みんなで頑張ろう」だった。学生、企業、公務員、ボランティア、一般市民がみな、自分はオリンピックを成功させる役割を担っていると考えていた。自分たちが平和を愛し、欧米のように、モダンで、熱心に社会に貢献しようとする存在であると世界に示すことができれば、日本は世界の他の偉大な諸国と肩を並べることができると信じていた。

記憶に残る夜

 日本国民が一致団結した日があったとしたら、それは1964年10月23日の金曜日だ。

 この日、日本武道館は、日本のお家芸である柔道での金メダルを期待する観客で、ぎっしり満員だった。だが、日本人の間にはあきらめのムードもあったようだ。前日までの3日間に実施された3階級で3名の日本人柔道家が金メダルを獲得してはいたが、この日の無差別級で神永昭夫がオランダのアントン・ヘーシンクを負かせるかどうかは疑わしかった。

 ヘーシンクは、1961年の世界選手権で、日本人以外で初めての優勝を果たし、日本の柔道界に衝撃を与えた。予選の対戦でヘーシンクはすでに神永を破っていたため、明仁皇太子と美智子妃を含め、日本武道館で観戦していた日本人は、神永が予想を覆して勝利することを願ってはいたが、現実には2人の柔道家が並んで立つ姿を見て、ただただ心配を募らせていた。一方は身長2m、体重120kgの外国人の巨漢で、他方は180cm、102kgの日本人だった。

 柔道を嗜む者は、勝利には体格の大きさよりも技、バランス、調和が重要だと知っていたが、内心では多くの人が大柄で力強い外国人の方が勝つだろうと感じていた。実際、太平洋戦争では巨大で強力なアメリカ兵が同盟国と力を合わせて日本帝国軍を打ち破っていたのだから。

 そして、ヘーシンクはなんなく神永を負かし、日本国民を意気消沈させた。

 10月23日の夜、神永が破れた日本武道館から南西に13kmほどの地にある駒沢屋内球技場では、日本の女子バレーボールチームが優勝決定戦に備えていた。まさに巨大で強力な敵である、ソ連に立ち向かおうとしていたのだ。

 だが、バレーボールの東洋の魔女たちがソビエトを打ち破るだろうというある種の雰囲気が漂っていた。それは、1962年の世界選手権ですでに、日本の女子バレーボールチームはモスクワに乗り込んで優勝決定戦でソ連に勝利していたからかもしれない。だから、金曜日の夜にほぼ全国民がテレビの前に集まり、みんなが大喜びでお祝いする準備を整えていた。

 とはいっても、ヘーシンクが神永を負かして、日本発祥の唯一のオリンピック競技で金メダルを総なめするという日本人の願いを打ち砕いたばかりだ。「おそらく自分たち日本人はそれほど体格が大きくなく、強くもないのだろう」と考えた人たちはいたかもしれない。

 女子バレーボールチームの大松博文監督は、この体格差の課題に取り組み、何年にもわたって選手たちを鍛えて、体格や力強さの面での劣勢をスピード、テクニック、そして根性で補おうとしてきた。日本対ソ連の試合、第1セットは15対11、第2セットは15対8、最終セットは気を揉ませたが、僅差の15対13だった。日本はソ連をストレートで破り、日本国民は大いに安堵し、喜んだ。

 小柄な日本人女性が大柄なソ連の女性を打ち負かした。神永の敗北によって受けた痛手がいかに大きなものだったとしても、ボールがコートに落ちてこの試合を締めくくる最後の得点になった瞬間に、その痛手はすっかり洗い流されてしまった。

 球技場に詰めかけていた観客は歓喜に沸き立った。当時はテレビが飛ぶように売れていたので、全国の居間でも視聴者が同じように大喜びした。東京オリンピックの放送はおおむね複数のチャンネルで行われ、同じイベントを最大5つのチャンネルが放送することもあった。例えばそれは、開会式や閉会式であり、また日本がソ連を破って金メダルを獲得した女子バレーボールの優勝決定戦もそうだった。つまり、バレーボール優勝決定戦の試合終了時には、全国民が一斉に飛び跳ねて喜んだことだろう。

 1964年ほどこの国が一つになり、国民が誇りを感じた年はなかった。日本は瓦礫の山から立ち上がり、20世紀最大のアジアにおける経済的奇跡へと突き進んでいた。

 あの日、日本という国は生まれ変わった。あの時の日本は若く、自信に満ち溢れ、その名声を世界に轟かせた。

ロイ・トミザワ

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 スポーツジャーナリスト。近著には『1964 -- 日本が最高に輝いた年 敗戦から奇跡の復興を遂げた日本を映し出す東京オリンピック』がある。
文/ロイ・トミザワ