ロイ・トミザワ - 次男の希望、2020年東京パラリンピックへの願い

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 1932年は日本人にとって時代を画するスポーツの年になった。この1932年のロサンゼルスオリンピックで日本選手団は18個のメダルを獲得し、うち7個が金メダルだった。

 南部忠平は三段跳で金メダルに輝いた。宮崎康二は競泳の100m自由形と800mリレーで2つの金メダルを手にした。清川正二、鶴田義行、北村久寿雄も金メダルを獲得し、競泳大国として台頭する日本の姿を世界に示した。

 日米両国の日本人にとってなんと誇らしい瞬間だったことだろう。

 私の祖父、冨沢清は当時カリフォルニアに住んでいた。1903年に日本を離れてアメリカに移住し1932年当時、祖父はサンフランシスコのジャパンタウンにある日系アメリカ人YMCAの代表理事を務めていたが、29年を経ても国籍は日本のままだった。

 そのころ、日系アメリカ人コミュニティ向けにロサンゼルスで発行されていた新聞『羅府新報』に掲載されたこの詩を祖父が目にしたかどうかはわからない。だが、読んでいたならきっとさぞ誇らしく思ったことだろう。

日章旗が
メーンマストに挙がった。
もう夢ではないんだ。
国別のメダル獲得表で
日本のスコアがどんどん上昇する。
輝かしく、ああ輝かしく
ロサンゼルスの青い空に
日本国旗がいくつもたなびいている。
感激で体が震える。
歓喜の涙が溢れだす。
勝利が勝利をほめたたえる。

 間違いなく全米中の日本人コミュニティが、実に誇らしげにロサンゼルスでの日本選手団の偉業を見守っていたことだろう。傑作『スリー・イヤー・スイム・クラブ:マウイ島のサトウキビ水路キッドがオリンピックの栄冠を探求する秘められた物語』(仮題)の著者ジュリー・チェコウェイは、1932年オリンピック大会での日本選手の偉業は米国在住の日本人を釘付けにしたに留まらず、変容させてしまったと述べている。

カリフォルニア在住の日系一世も二世も総計10万ドル以上を費やしてチケットを購入し、このイベントを観戦した。そして、何度も何度も日本国旗がスタジアムに高く翻る様子を目にした。象徴に満ち溢れた光景だ。日本のスポーツコメンテーターは、西洋のスポーツ界は大日本帝国の足元にひれ伏したとさえ言ってのけた。ジュリー・チェコウェイ)

 祖父にはこの上げ潮が必要だったのかもしれない。祖父は日系アメリカ人のための自前のYMCAビル建設の資金調達に奔走していたが、時代は大恐慌だった。さらに反アジア、排日の運動も盛んだった。サンフランシスコ在住の日系の若者を支援するための資金を集めるのは容易ではなかった。

 だが、祖父は粘り強く活動し、多くの人の助けを得て、YMCAビルの建設にこぎつけた。建物は現在もその地に建っている。ブキャナンYMCAは今でも「Jタウン」と呼ばれる地区の、中核的な存在だ。

 私は祖父と祖父の遺産に畏敬の念を抱いている。祖父は出会った人たち全員に、自分が抱く希望、平和、理解という価値観を自らの行動を通じて提示した。祖父が幾世代もの人たちに及ぼしたような影響は、私には無縁だ。祖父は子や孫にとって途轍もないロールモデルで、みな祖父を見習ってベストを尽くしている。

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次男坊

 ロナルド・タカキはアジア系米国移民の歴史を描き出した名著『もう一つのアメリカン・ドリーム : アジア系アメリカ人の挑戦』で、19世紀から20世紀初めにかけて日本の学校で教師が生徒に教えていた社会規範である長子相続について説明している。長子相続では、家族単位での富を維持する目的で、長男が父の財産の全部もしくは大半を相続する。長男でない子は別の人生行路を見つける必要がある。

 「長男よ、日本に留まって、日本の男になれ。次男よ、大志を抱いて海外に出かけ、世界の男になれ!」

 私は次男坊だ。そして、父も次男だ。

 だが、私の家系の肝腎要たる次男は祖父・冨沢清だ。清の父であり、私の曾祖父に当たる清賀は、福島の「侍」で、曽祖父は祖父に武士の心得たる剣道、弓道、書道を教えた。高祖父は「冨澤八郎左衛門、源陽清」という、封建主義時代の堂々たる名前・称号をもっている。

 戸籍によると、祖父清は11歳の頃に片岡家の養子になった。だが、清は片岡家とうまくいかず、18歳の頃に冨沢家に戻ったようだ。祖父が次男坊だったことを思い出してほしい。グレースおばさんが言っていたが、曾祖父には2人の息子を抱えるだけの金銭的余裕はなかった。

 次男坊の祖父の人生の前途には、依然大冒険が待ち構えていた。

世界の男

 祖父の大学生時代は世界が本当に活気に満ちていた。

 蒸気機関がとてつもないイノベーションを生み出していた。とりわけ蒸気機関車と蒸気船のおかげで移動が容易になり、国際貿易が増加し、そして米国への移民も増えた。全世界的なアイデアの共有も促進された。

 1844年にイングランドで創立されたキリスト教青年会(YMCA)は急速に全世界に広まった。YMCAロゴマークの三角形は、精神、知性、身体を表している。目標は、とりわけ拡大しつつある中産階級での、健康で優良な男女の育成だった。農地で働いていた何百万人もの人々が人混みの多い都市の工場で働くようになっていた。

 YMCAの宣教師は蒸気船で世界中に赴いた。その一人が日本の仙台にやってきて、祖父と出会った。

 祖父は仙台にある現在の東北学院大学に入学した。米国の教会組織とつながりのあるキリスト教系の学校だ。1898年、19歳の時に祖父は洗礼を受けた。

 その3年後に、祖父はYMCAの指導者ジョン・モットに出会った。モットは蒸気機関車と蒸気船で世界中を巡り、生涯170万マイル(約270万キロ)を移動したという。地球68周に相当する距離だ。アジアにも何度も訪れており、それに西洋人の大半が知っている地球上の地域についても知識を持っていた。その後、複数の米国大統領と友人になっている。

 ジョン・モットは1946年にノーベル平和賞を受賞している。植民地主義を非難し、西洋の人種差別を憎み、肌の色、信条、国籍にかかわらずすべての人にとっての尊厳ということをよく口にした。そして、明晰な思索をする思想家で、演説者としても優れていた。

 祖父は、ジョン・モットの深い薫陶を受けた。そして、ジョン・モットは「大志を抱いて海外に出かけ、世界の男になれ」と祖父に吹き込んだ。祖父は叔父からお金を借りて、アメリカ行きの船のチケットを購入した。

 1903114日、祖父は横浜港で旅順丸に乗り込み、18日かけて太平洋を渡り、19031121日にワシントン州シアトルに到着した。あやうくアメリカに辿り着けないところだったという

 当時の蒸気船の旅は危険が大きかった。よく惨事が発生した。嵐が理由のことが多かった。祖父がアメリカの地に足を踏み入れた日のシアトルタイムズの記事によると、「今朝横浜から到着した蒸気船・旅順丸は、ものすごい暴風雨のなかを航海し、5日間東寄りの強風のなかで大揺れに揺れた。真横に傾いて、左舷の手すりが海に浸かった。いっとき旅順丸は完全にひっくり返るのではないかと危惧されていた」

 祖父がジョン・モットに出会い、旅順丸が転覆しなかったおかげで、私と冨沢家の全員がアメリカで生を送ったというわけだ


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故郷・福島への旅

 私が1歳の誕生日を迎えたのは、ニューヨークでのことだった。その場に母と兄はいたが、父トーマス・トミザワはいなかった。19641010日、父は東京にいた。NBCニュースが1964年東京オリンピックを米国の視聴者に向けに放送したが、父はその報道記者を務めていた。

 父は世界股にかけるジャーナリスト兼ニュースプロデューサーで、キャリアは輝かしいものだった。日本居住経験もあり、米軍の準機関紙『星条旗新聞』 の仕事をしていた。

1957年から1958年にかけてのことで、そのときに母と出会ったという2人はアメリカに戻り、兄マイクが誕生した。そして私だ。父がジャーナリストとして世界を旅していたから、私が存在している。

 私は大学卒業後にペンシルベニア州で新聞記者として働いた。ところが、大志を抱いて海外に出かけたいという思いに駆り立てられ、1986年に東京に引っ越した。

 父方の家系が福島出身であることは把握していた。19898月のある暑い日に福島県の小高町(現・南相馬市)を訪れて、150年ほど前の冨沢家の記録を手に入れた。親戚が近くに住んでいる、と町役場の職員が教えてくれた。祖父の妹の子孫が志賀理容所という理容店を開いていた。

 私は日本語がうまくなかったが、記録を見せると、向こうは私が一族だと理解してくれた。写真を見せてくれ、寿司を御馳走してくれた。さらに、冨沢家の墓所に案内してくれた。父の先祖が立っていた同じ場所に立つ。とても感動的な瞬間だった。

 20197月に小高を再訪して、またいとこの志賀隆に会い、父の先祖のゆかりの地を訪れた。小高は福島第一原発の北ちょうど20キロの地点にある。あの地震、津波、第一原発の事故を経て、志賀一家は福島を後にしたが、8年後に戻ってくることができた。先祖が埋葬された場所は海岸からわずか100メートルで、あらゆるものが津波で流されてしまった。

 だが、記憶はいつまでも残る。


Thomas Tomizawa at Tokyo Olympics_5.JPG

復興五輪--新たな希望

 2021723日、ついに2020年東京オリンピックの開会式が行われた。東京が2020年大会の開催都市を勝ち取った2013年は、東日本大震災からほんの2年後だった。そのため、今大会は「復興五輪」と銘打たれた。

 現在では、この「復興五輪」は新たな解釈を施され、自然災害を克服する機会から、世界的なパンデミックという苦難を克服する機会に変わってしまった。観客席での観戦は禁じられた。だが、多くの人が3時間以上国立競技場の周囲に集まって、場内の熱気を感じ取り、もう一度あの興奮を味わいたいと願っていた。そう、2年前のあの素晴らしいラグビーワールドカップ2019日本大会のときのように、見知らぬ人とも友人とも、大勢で一緒に味わいたいと望んでいた。

 世界中の人がテレビで開会式を見た。だれもが目にし、意見の一致をみた出来事が一つあった。アスリートたちは日本に来ることができて本当に嬉しそうだという点だ。オリンピック大会を推進する決定をした日本に感謝している、と多くのアスリートが語っていた。

 アスリートには全人類を抑えつけている束縛から解放されて最高の力を発揮してほしい、と人々は願っている。声援を送るような出来事があまりに少ないから、今一度応援したいのだ。

 祖父なら理解するだろう。1932年、祖父にとって日系アメリカ人のためのYMCAビル建設に要する資金の調達は困難の極みだった。しかし、祖父は大恐慌にも、アメリカのあからさまな日本人差別にも挫けなかった。オリンピックと同胞の偉業が祖父を鼓舞し、希望が生み出された、と私は確信している。

 健康に長生きする秘訣は、用心と楽観主義のバランスだ。パンデミックで最悪の状況に陥っていた時期には人々の心は大きく用心の側に傾いたが、ワクチンが届けられ、改善の徴候が見られるようになると、楽観主義の側に移ることを望んでいる。スタジアムの外の一般の人たちとスタジアム内のアスリートはともに、人類が徐々に癒やされていくという願望と期待を表明していた。

 希望が人類を前進させる。

 ワクチン接種率が上昇し、緊急事態宣言がスーパースプレッダーイベントの可能性を抑えれば、感染率が十分に低下して、日本社会の全般的な不安が和らぐ可能性はある。8月の雰囲気が7月とは異なっている可能性はある。現在の緊急事態が終了したら、国民も企業も政府も正常化に向けた措置を採ることを希望する可能性はある。

 果たしてどうなるだろうか?東京2020パラリンピック競技大会は、ちょうどよい時期に熱戦の火ぶたが切れることになるかもしれない。パラリンピックでは国内外の観客が競技場やスタジアムへの入場を許可される可能性がある。満員の観客というのは無理かもしれないが、新国立競技場に観客が入っている光景は世界を明るくするだろう。

 私は東京2020パラリンピックの開会式と閉会式のチケットを持っている。

 私は希望を抱いている。

ロイ・トミザワ

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 スポーツジャーナリスト。近著には『1964 -- 日本が最高に輝いた年 敗戦から奇跡の復興を遂げた日本を映し出す東京オリンピック』がある。
文/ロイ・トミザワ