東京オリンピック・パラリンピックが世界に伝えたメッセージ

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 コロナ禍で実施された東京オリンピック・パラリンピック。開催中は多くの人が競技に熱中したが、開催後の東京や世界各国には、何をレガシーとして残すことができたのだろうか。大会の運営に深くかかわってきたオリンピック・パラリンピック準備局計画推進部長の田中彰さんに話を聞いた。

刻一刻と変化する状況下での運営

 「東京2020大会が何をもたらしたか、というのをしっかりと皆様に説明していくことも重要です。今も大会全体についての実績を整理するなど、閉会してもやるべきことはまだまだある状況ですね。」と田中さんは話し始めた。

 前例のない延期、コロナ禍という状況の中、プレッシャーを感じることも多かったそうだ。刻一刻と状況が変わる中で、いかに大会に関する正確かつ適切な情報をお知らせするかに注力していたと言う。

 さらに無観客開催となったことで、会場周辺で観客の案内を担当する「シティキャスト」と呼ばれるボランティアの方々も活動ができなくなるなど、現場では不安も生まれていた。しかしボランティアの方々の強い想いが、大会運営の成功を後押しした。

 「オンラインでのご案内をはじめ、どんな役割を果たしていただけるのかをボランティアの方のご意見や考えを尊重して、時間のない中で組み替えていきました。最後は、大会を成功させたいというボランティアの方々の強い想いが結実したと思っています。」

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東京2020大会は何を残していくのか

 「シティキャストの皆様には老若男女、障害の有無にかかわらずご協力いただきました。そういった面でも、東京大会は多様性あふれる大会だったと評価いただいています。」

 東京2020大会は、「すべての人が自己ベストを目指し(全員が自己ベスト)」、「一人ひとりが互いを認め合い(多様性と調和)」、「そして、未来につなげよう(未来への継承)」の3つを基本コンセプトにしていたが、特に多様性やマイノリティに対する人々の見方が大きく変わるきっかけとなったと言える。ボランティアの方々の条件にあわせて、活動しやすい場所や時間などについて、細かな配慮がなされていた。

 また、変わったのは人々の意識だけではないと田中さんは話す。

 「だれでも優しさを感じられる街づくりというのも、本大会がきっかけで進みました。大会会場周辺や交通機関での段差をなくしていく取り組みが計画的に進められ、東京の街自体にも良い影響があったと言えます。」

 その他にも、被災地での競技開催や選手村における被災地産の食事提供などに代表される復興オリパラとしての取り組みをはじめ、選手のメダル全てが使用済みの携帯電話から作られるという「都市鉱山からつくる! みんなのメダルプロジェクト」など、東京大会ならではの取組は枚挙にいとまがない。そして、テクノロジー面でも多様性に通ずる新しい試みが見られた。

 「特別支援学校の生徒さんへ向けて、会場内に設置されたロボットを5G経由で操作してもらうことで、まるで会場にいるかのような観戦体験をコロナ禍においても提供することができました。」

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 1年の延期を通じてコストの削減にも取り組んできた。無観客開催の中で、残すべき大会の本質を突き詰めてきたと言う。次回以降の大会もこれら東京の経験を生かしてもらえたら、と田中さんは話す。

 「東京2020大会はLGBTQであることを明かして参加する選手が過去最多となりました。ハード・ソフト両面でのバリアフリーのまちづくりや、パラスポーツの魅力発信など、競技会場の内外で多くの人が一丸となって作り上げたからこそ、多様性にあふれる大会になったと感じています。そしてなによりも都民やボランティア、関係者の皆様のご支援、ご協力がなければ、安心安全な運営は成しえなかったと思っています。こういった経験を、レガシーとして将来に引き継ぎ、発展させていくことが重要と考えます。」

田中 彰(オリンピック・パラリンピック準備局 計画推進部長)

1989年に入都し、産業労働局観光部副参事、都市整備局住宅整備課長、港湾局調整担当部長を経て、2015年オリンピック・パラリンピック準備局運営担当部長に就任。その後、2019年オリンピック・パラリンピック準備局計画推進部長として、東京2020大会に係る企画、調整や開催計画に関する業務を担った。