「国産の弓」を再び世界へ。復活に挑んだ町工場の底力

Read in English
 世界最高峰の戦いが繰り広げられた東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会。そんな華やかな舞台の裏には、国産アーチェリー弓具の復活を目指した男たちによる熱いドラマがあった。下町の町工場が長い挑戦の末に見た景色とは――。
Belish/Shutterstock.com

趣味から始まったメイド・イン・ジャパン復活への道

 夢の島公園アーチェリー場で行われた、東京2020オリンピック競技大会のアーチェリー競技。男子団体で銅メダル、個人でも古川高晴選手が銅メダルを獲得し、日本代表にとって大躍進の大会となった。

 しかし、かつては日本製が世界をリードしていたアーチェリーの弓具も、現在では国内メーカーがすべて撤退。今大会で使用された弓具も外国製だった。

 この途絶えた「メイド・イン・ジャパン弓具」の復活に挑んだのが、東京都江戸川区にある町工場、西川精機製作所の西川喜久社長だ。

 西川社長が学生時代から関心のあったアーチェリーを初めて射る機会を得たのは、40歳も過ぎた頃だった。競技の魅力もさることながら、すぐさま道具にのめり込んでいく。ところが外国製の弓具は日本人の手には少し大きく、練習仲間からも不満の声を聞いていた。

 それから数年、仲間の声にも押され、ハンドル(ライザー)の製作に乗り出すことを決意。見よう見まねでつくった初号機は、矢は飛ぶものの、弓具としての体をなしていないものだった。

nishikawa02.jpg
西川精機製作所の西川喜久社長

「オリンピックを目指す気がないなら手を貸さない」

 初号機は競技に使えるものには程遠く、見兼ねたアーチャーが引き合わせてくれたのが、かつてメーカーで日本の弓具づくりを牽引していた本郷左千夫氏だった。初めて会った時、本郷氏からは「自分が関わる以上はオリンピックに出られるレベルのものを目指す。日本の競技を一緒に底上げしていくという気概がないのであれば、絶対に力を貸さない」と言われた。

 その気持ちに西川社長もいっそう奮起。そこからが本当のスタートだった。何度もダメ出しされ、試行錯誤を繰り返した。ハンドル本体のアルミニウムの切削は西川精機製作所が担い、グリップ部分のプラスチック成形や塗装は、それを専門とする工場の協力を仰いだ。

 そして2020年2月、本郷氏の知識と哲学を受け継ぎ、下町の技術を結集させた国産ハンドルが完成する。初号機を製作してからすでに6年の月日が流れており、残念ながら東京2020オリンピック競技大会で使ってもらうには、間に合わないタイミングだった。

 「悔しかったですよ。あと1年早ければ......とは思いました。でも、オリンピックはこれが最初で最後ではありません。スポーツに関わる道具をつくるメーカーの矜持として、アスリートにずっと伴走していく気持ちでいますから、納得したものを世に出すには必要な時間でした」

 すでに前を向く西川社長。現在は若手有望選手への提供が決まり、2024年のパリ大会を目指しているという。

nishikawa01.jpg
6年の歳月を経て完成した「Sakura SH-02 H25」

「ニッポンの弓具」を東京から世界へ

 西川精機製作所では、パラリンピックのアーチェリー競技で使用される障がい者用コンパウンドボウの製作にも乗り出している。

 「健常者だからとか、障がい者だからとかではなく、その人の体型・体質に合った弓具で、誰もがアーチェリーを楽しめるような社会をつくる。まさにダイバーシティ&インクルージョンですね」

 今はハンドルだけだが、いずれはリム(板バネ)も製作し、セットで最高の弓を提供できるようになりたいとも西川社長は語る。

 「日本で途絶えた弓具をただ復活させるのではなく、今の時代に即した技術で、より高性能の弓具をつくっていきたい。日本の弓具界を東京からスタートさせるつもりです」

 西川社長の挑戦はまだまだ終わらない。次のパリ大会、その先の未来まで、夢は大きく広がっている。

nishikawa03.jpg
西川精機製作所の工場内
取材・文/干場千寿