東京が、オリンピック・パラリンピックを救った【寄稿】

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 ニューズウィーク日本版編集長・長岡義博氏が振り返る、「東京2020」の真のレガシーとは。
Anadolu Agency/Getty Images

 東京オリンピック・パラリンピックが終わって2カ月半も経つと、さすがに東京の街角からアスリートたちの匂いは消えている。新型コロナウイルス流行下での開催をめぐり、果てしのない議論が続いたことも多くが忘れられ、世界最大のスポーツイベントの残像だけが脳裏に鮮やかである。

 日本と東京にとって、かつてなくほろ苦いオリンピック・パラリンピックだった。世界最多の国・地域から最多の選手が参加する五輪は容易に政治に巻き込まれるが、感染症も例外ではない。グローバル化の旗印の下、「より遠く・より多く・より速く」のコミュニケーションを是とした価値観はパンデミックで逆転し、「より近く・より少なく・ただしもっと速く」に変わった。世界最大のスポーツイベントであるオリンピック・パラリンピックの開催とは、どう考えても矛盾する。

 この自家撞着に対して、東京が出した答えが「(ほぼ完全)無観客」だった。かくして開催国・地域に住む日本人・東京都民すらバーチャル観戦するという「非常」なる大会が五輪史上に初めて出現した。

 東京五輪が本来開催されるはずだった2020年の前年、2019年にアジアで初めてのラグビーワールドカップが日本で開かれた。ビールを両手に持った242000人の外国人観戦者と、ハーフタイムに『Sweet Caroline(スウィートキャロライン)』をスタジアムで大合唱した思い出は、世界的なスポーツイベントのプライスレスな「レガシー」そのものだ。

 そんなレガシーは「非常時」の無観客オリ・パラ大会には当然ない。ついでに言えば、「コンパクト五輪」が招致時の約束だったから、駒沢オリンピック公園や代々木体育館、さらには首都高速、東京モノレール、東海道新幹線が今も残る1964年大会のようなインフラ的遺産も控えめすぎるほど控えめである。

 それでは、9月日に閉幕した東京オリンピック・パラリンピックにレガシーはないのだろうか。

 ウイルスの感染が急速に広がる中の開催で、ほとんど取っ組み合いと言っていい議論が国民の間で起きた。片や、命の重さを理由に「ゼロ五輪」を求める人たち。片や、世界およびアスリートの約束を根拠に「≒普通の五輪」を目指す人々。「五輪をコロナに打ち勝った証にする」という日本のトップの言葉は、二次曲線を描いて急増する感染者数の前では虚しく響いた(五輪は感染症にとって科学的には拡大材料でしかないから、五輪をコロナに打ち勝つ証にするのはそもそも無理だ)。

 けれど。「ゼロか100か」の結論でなく、「(ほぼ完全)無観客」という妥協点に(いまも納得していない人はたくさんいるだろうけど)たどり着き、9月日の閉幕日を迎えたことは、1つのレガシーと言えはしまいか。妥協は必ずしも悪ではない。

 苦しみぬきながら、できる限りの形でオリンピック・パラリンピックを開催したことをもっと日本と東京は誇りに思っていい。2013年に招致を最後まで争ったイスタンブールがもし開催地を勝ち取り、パンデミック下で開催か中止かを迫られていたら、どんな判断をしていただろう? そんな風にも考える。日本や東京ほど、感染症医療とそれでもスポーツが必要な社会の狭間で、良心の呵責に苦しむ人々に思いを馳せながらギリギリの判断ができただろうか、と。

 「東京2020」が、長く特に経済の低迷にあえぐ日本と東京の何かを変えてくれる、とわれわれは最初期待していた。そういう意味で東京2020は、戦後復興を牽引した「東京1964」の再現、つまり「昭和96年のオリンピック」となるはずだった。だが新型コロナウイルスですべてが変わった。オリンピックが日本と東京を、でなく日本と東京がオリンピック・パラリンピックを救うことになったのだ。

 ハードな遺産はない。スウィートなレガシーも、スケートボードがあれほど愛あるスポーツであると広く知られ、パラ競技がかつてなく見られたことは掛け値なしによかったけれど、残念ながらバーチャルな思い出にしかない。それでも日本と東京が困難な五輪をやり遂げた記憶は長く、強く残っていく。世界もきっと忘れないだろう。

長岡義博(ながおか・よしひろ)

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Newsweek日本版編集長。1969年、石川県生まれ。91年、大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)外国語学部中国語学科卒業。同年、毎日新聞入社(大阪本社配属)。事件・行政・選挙を担当し、95年には神戸支局で阪神・淡路大震災を取材。2002~03年、中国人民大学(北京)国際関係学部に留学。06年からニューズウィーク日本版勤務。2010年より副編集長、17年7月より編集長。コメンテーターとしてメディアにも幅広く出演する。