チェコの作家アンナ・ツィマが綴る
東京の地図を探すこと

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【寄稿】2018年のデビュー作『シブヤで目覚めて』でチェコの文学新人賞を総なめにしたプラハ出身の作家、アンナ・ツィマ氏。無数の姿を見せるという東京についてエッセーを寄せてくれた。
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Photo: © Barbora Votavová

東京は、その姿を変え続けている

 一つに形が決まった「東京」は存在しないだろう。それは昨日自分の目で見た東京が目の前で変わっていく、今朝目覚めたら別の東京になっていたという意味だけではない。私が住んでいる東京と、あなたが見る東京は、まったく異なる街だろう。街の様相が毎日変わりつつあることもあるが、人の内面が日によって変わったり、気分が落ち込んだりするのに応じて、街も多数の顔を見せる。東京都に住んでいる1403万人、日本各地や海外から東京に流れ込んでくる観光客、昨日と今日では人々が見た東京は、それぞれ異なっている。

 私にとって、具体的な形を失いつつある東京をどのように把握すれば良いのか。17歳の頃、初めて渋谷を歩いて写真を撮ったのだが、今その写真を見ると、写っているのは見知らぬ景色ばかりだ。もしも、その写真に写っている街に夢の中で入ることができたなら、その街はすぐ迷子になるほど変わってしまっているような気がする。

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アンナ・ツィマ氏の初の長編小説『シブヤで目覚めて』。チェコで日本文学を研究している主人公ヤナと、渋谷をさまよい歩く彼女の分身の世界が交錯する。左のチェコ語版の表紙絵はツィマ氏が描いた。

 昔見た、今は存在していないビルが蘇り、未知の存在となる。しかし道がわからない理由は風景が変わったからだけではない。当時17歳の観光客のワクワクした心を持った私が、後に生活を日本で送り始めてから街並みの風景に慣れ、昔興味深く思ったことに無関心となり、違うことに興味を持ち始めたからだ。

 古い写真をいくら見ても、足りない。以前見た東京を再現したいなら、それは当時の自分の中で見つけるほかない。再び現実化したいその街の地図が、心の奥底のどこかに潜んでいるだろう。問題なのは、それを完璧に取り出すのは不可能なので、同じ街を二度と歩くことが一生できないという違和感しか残らないことだ。

文学から街の地図を手に入れる

 だが、もし同じ街をもう一度同じ気持ちで歩けるとするならば、それは文学の中に閉じ込められた街だろう。本を手に取ることによって、その作品で描写されている街の地図を同時に手に入れられる。なぜならば文学というものは、目が回るほどのスピードで変わりつつある世界を一時停止できる手段なのだ。ページをめくりながら同じ場所を何回もゆっくり歩いたり、味わったりすることができる(ここでは人間が変わっていくならば、小説を再読しながら同じ気持ちや経験を味わうことなどできまい、と文句を言う人が浮かぶ。まさしくその通りなのだが、少なくとも文章が変わらないのは、想像力の源となる動かせない根拠と捉えることができ、毎度スタート地点は同じになるだろう)。

 東京が舞台となった小説を読むと、そこにはさまざまな時代を生きた作家が感じて想像した、無数の東京が発見できる。あまたの異なる描写があるが、その中に現実的でない描写は何一つない。目の前に並んでいる、まったく異なる東京の断片が、大きいジグソーパズルのように一つの作品を超えた大きく把握しにくい存在を意識させる。文字と文字の間を見通すことができれば、本当の東京をのぞき見ることができるかもしれない。

 簡単な話ではない。描写は印刷されて本の中でじっとしていても、東京は文学の中で生き物のように作者、読者、登場人物の目から逃れようとする。50年前も、100年前も、もっともっと前も、そうだった。夏目漱石の『三四郎』を開いてみると、三四郎が「もっとも驚いたのは、どこまで行っても東京がなくならないということであった。しかもどこをどう歩いても、材木がほうり出してある、石が積んである、新しい家が往来から二、三間引っ込んでいる、古い蔵が半分とりくずされて心細く前の方に残っている。すべての物が破壊されつつあるようにみえる。そうしてすべての物がまた同時に建設されつつあるようにみえる。たいへんな動き方である」と書かれている。

 『三四郎』は1908年に発表された。それから77年後、1985年に発表された日野啓三の『夢の島』では「おれたちはひとつの都市をつくってきたのではなく、何か得体の知れぬ力を呼び出し解き放ってしまったのではないだろうか。木と紙と瓦屋根の、キノコの群のような家並を生(は)やしてきたこれまでの力とは別種の荒々しい力。何かが微妙に変わりかけている。もはや人間のコントロールの及びえない力がひとりでに成長し始めているみたいだ」と書かれている。東京はずっと以前から、20世紀を経て現代に至るまで絶えず動き、再建されていく運命にあるようだ。

小説に描き込んだ東京は主人公のものとなり、私から離れていく

 私は17歳の頃に経験した東京から離れたくなかったので、小説『シブヤで目覚めて』の中で女性の主人公を渋谷に閉じ込め、チェコへ帰ることを拒ませた。理由は多数あったが、その一つは、無意識のうちにこれからも昔の目で見た東京をいつでも再び経験できるようにするためだったかもしれない。ただし、私の試みは私を裏切り、主人公が性格を持つようになったら、彼女が見た東京は私が見た東京から離れ、また独自の東京となった。作ってみた昔の東京の個人的な地図が、他人の地図となった。

 主人公の東京の地図は、これからも私から遠く離れていき、結局まったく使えない地図となるだろうが、他人のものとなったこの地図が、読者にはまだ楽しく使えそうだ。もし、あるフィクションの外国人が経験した渋谷を散歩してみようと思ったら、『シブヤで目覚めて』を手に取ってみてください。

アンナ・ツィマ

J-186_AC_02_cut.jpgPhoto: © Barbora Votavová
小説家・翻訳家。1991年、チェコの首都プラハに生まれる。2018年にチェコ語による小説『シブヤで目覚めて』をパセカより刊行しデビュー、マグネジア・リテラ新人賞などを受賞。2021年に河出書房新社より邦訳(阿部賢一・須藤輝彦共訳)を刊行。2022年に第2作『うなぎの思い出』をチェコで上梓。チェコ語への訳書にイゴール・ツィマ共訳で、高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』島田荘司『占星術殺人事件』など。2019年より東京在住。

『うなぎの思い出』アンナ・ツィマ著

J-186_Cover_V_C.jpgパセカ刊
2022年9月に発表された2作目。主人公はチェコ人の母と日本人の父を持ち、ニホンウナギを研究している横浜在住の福原サーラ。熱帯魚店を営む中島と、ペットのウナギとウナギ語で会話する海弓(みゆ)が数少ない友人だ。平穏な暮らしは、行方不明となった同僚の新聞記者を捜す、サーラの同級生鈴木ゆかの訪問で一変する。



※記事中の引用は、夏目漱石『三四郎』角川文庫(2016年)、日野啓三『夢の島』講談社(1985年)より。