教育者でジャーナリストのジョージ・ミラーが自転車の旅で見つけた愛すべき東京
2018年、高円寺で新しいギア無しの自転車を手にした日は、地元では有名な東京高円寺阿波おどりの日だった。それは素晴らしいものだった。
太鼓を叩く音と甲高い声が高層ビルにこだまする中、色とりどりに着飾った踊り手たちの歓喜の舞を見ようと何万人もの観客が集まっていた。踊り手の一行がアーケードのある商店街に集結すると、喜びにあふれた歓声が熱狂に包まれた。それに合わせて観客も踊らずにはいられない。飲み物を手に持ったまま音に合わせてステップを踏み踊る人もいた。
8月の暑さにもかかわらず、私は数時間歩き回り、かき氷で涼をとった。かき氷を食べると、幼少期に過ごした九州の暑い夏をいつも思い出す。
日は暮れたが、15キロほど離れた自宅まで自転車で帰らなければならなかった。そう、本来なら15キロの距離だった。しかし、新宿や渋谷の夜更けの盛り上がりを見たかったので、途中写真を撮りながら本来のルートを外れて自転車を走らせた。東京に来たばかりだったので、皇居にも行ってみようとさらに遠回りをした。何度か道を間違え、迷い、しばらく同じところをぐるぐる回った。
家に着く頃には疲れ果てていた。翌日の日曜日は寝坊したが、午後にはまた自転車で東京を回った。それから3年間、私はほぼ毎日、自転車で東京を探索した。当初、私にとって全く謎に包まれていた東京が、この自転車のおかげですぐに快適な住処になった。
日本で暮らすきっかけとなった幼少時代の経験
私は米国で育ったが、母方は、長崎県佐世保市出身の日本人だ。幼い頃は毎年1カ月ほど母と一緒に佐世保に帰省したが、年齢が上がるにつれてその頻度は減り、滞在期間も短くなった。
時が過ぎ、私が成長するにつれて、佐世保の家も変化した。500年の歴史ある母の実家を訪れるたびに、新しいいとこ、新しいペット、新しい家具が増えていた。佐世保での暮らしは、当然のことながら、私がいない間にもどんどん進んでいった。
2000年代前半に祖母が他界し、大好きだったいとこのミドリも亡くなった。2017年の夏にはおじのノリユキが亡くなり、私は打ちのめされた。おじは私のお手本だったのだ。大切な人たちともっと多くの時間を過ごせばよかったと、深く後悔し始めた。
日本で暮らしたいと以前から口にしていたが、適切な機会が見つからなかった。ところが、おじを見送った2カ月後、所属する大学の日本キャンパスの教務担当副学部長の求人票を受け取った。
そして、翌年8月に着任した。47歳の時だ。
東京での素晴らしき日々
私にとって日本といえば、九州の有名な段々畑、緑の山々や海辺の景色で、東京という巨大な大都会は想像もつかなかった。
暑い夜や週末には、浅草寺や駒沢オリンピック公園など、大まかな目的地だけを決めて自転車を走らせたが、途中で太鼓の音や歓声に耳を傾けることもあった。その音を頼りにお祭りの場所を探すのだ。道に迷うことは何度もあったが、小さな公園や古い神社、現代建築、そしてたくさんのお祭りと、思いがけない光景をたくさん目にすることができた。全ての旅が冒険だった。
東京イーグルスという世界各国出身の選手から構成されるチームで野球を始めると、多摩川から江戸川、東京の最北の地である北区からはるばる横浜まで、試合には毎回自転車で向かった。
私が東京に来てから数カ月後には妻もやってきて、阿佐ヶ谷のジャズフェスティバルや王子のラッコズピザ、さらには鎌倉の海岸までと、実にいろいろな場所を自転車で一緒に訪れた。
自転車の旅は爽快だった。
自転車の高さから、そのスピードで日本を見ることで、全てのもののつながりを深く理解することができた。標識や建物を認識するようになり、地形もすぐに覚えた。中目黒から代官山に向かう途中にあるような急な坂を回避する近道も覚え、自転車でなければ発見できないような新しいお気に入りの場所も見つけた。自由が丘もその1つだ。イーグルスの試合の帰りには、アフリカリクガメのボンちゃんとも出会った。天皇陛下の一般参賀など、立ち寄った先で取材を受け、妻と一緒にテレビに映ったことも何回かある。
大学では教務の仕事に加えて、雑誌の執筆やドキュメンタリー写真など、いくつかのジャーナリズムの講座の教鞭も執った。東京のことを知っていることで、学生への指導を容易に進めることができた。街中でのフィールドワークの課題を出したが、学生が記した地域について、身を以て得た知識で学生に語ることができたのだ。
あの自転車は、日本での一番いい買い物だった。
米フィラデルフィアに戻るも、東京への思いは消えず
2021年は妻が妊娠していたため、一緒に自転車に乗ることはあまりなかった。私たちは毎日ウォーキングをしたが、自転車とは違った。常に新しい景色を見ることができず、互いに取り残された気分になった。コロナ禍の最中で外出することもほぼなかったため、その頃にはお互いの心の内がわかっていた。
仕事が終わると、私はいつも新しい道を探しながら自転車で家に帰った。週末は、イーグルスの野球で杉並区から墨田区までいたるところを自転車で遠出した。もうGPSは必要なく、地元の人間になったような気分だった。
しかし、息子のケンゾーの誕生を控え、米国の親戚と離れて日本に留まるか、1年間のサバティカル(長期休暇)が待っている米国に戻るか、私たちは決断を迫られた。
その年の7月、私は来日前に25年間過ごしたフィラデルフィアに戻った。1カ月後にはケンゾーが生まれた。自転車で通勤はしているが、あまり探索はしていない。ここは寒いし、日本ほど安全ではないからだ。
私は息子と一緒に日本に帰る日を楽しみにしている。彼には毎日、日本語で話しかけている。私が大好きないつも話して聞かせている場所を、息子にも見せてやりたいのだ。
ジョージ・ミラー
米ペンシルベニア州フィラデルフィアにあるテンプル大学の准教授(ジャーナリズム学)。2018年から2021年まで、三軒茶屋にある同大学日本キャンパスで教務担当の副学部長を務めた。ジャーナリストとして30年にわたり、世界各地で取材を続けている。翻訳/ 前田雅子