Correspondents' Eye on Tokyo:
在京の米国人ジャーナリストが見た東京の街と日々の生活の変容

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 カリフォルニア州出身のランディ・シュミット氏は90年代、日本へ移住したいと話すと、多くの人に笑われたという。意に介さずに移住をしたシュミット氏は26年となった東京での日々を振り返りながら、この決断を本当に良かったと語る。
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1990年代から東京に住むシュミット氏。この間に、東京の街と自身の仕事の変化を経験してきた。

「流れる氷河のように遅く、雷のように速い」東京が持つ二つの速度

 シュミット氏は自分の移住の決断をこう振り返る。「33歳だった1996年、私はカリフォルニアにあった全財産を倉庫にしまい、東京への航空券を購入し、人生とキャリアの再出発をしました。インターネットも携帯電話もない。日本語も話せないし、現地の友人もいない。仕事のあてすらない。そんな私にとって、3か月の観光ビザによる異国の地への移住はとても勇気がいることでした」

 その後、日本で結婚したシュミット氏は、家族を持ち、テレビニュースのカメラマン、編集者兼プロデューサーとしてアジア各地を回り、この約30年間の歴史的な出来事をカメラにとらえてきた。また、この間、進化していく東京の姿も目の当たりにした。

 シュミット氏は渋谷のスクランブル交差点のように変わらない場所もあることを指摘し、「東京は変化したところもあれば、そのままのところもある」と話す。「事業は移り変わっていくものの、市場全体としては大きな変化はありません。新幹線も1964年から少しずつ変化していますが、基本的には同じです。幸い今は喫煙車両がありませんけどね!」

 欧米ではあらゆる業界が機械化を進めているのに比べ、日本では多くの業務を可能な限り人間中心に行うことが好まれる傾向にある。しかし、現代技術により消え去った日本の過去の姿のいくつかをシュミット氏はしっかりと覚えている。

 「私が移住してきた1996年、東京近郊の駅には切符担当の駅員がいました。改札口で乗客の切符に穴を開ける仕事をしていました。改札の駅員は乗客が来なくても、ずっと切符を切る道具を神経質に打ち続けていたんですよ!」    

 衛星ナビやグーグルマップもない時代にシュミット氏は、地図とコンパスを手に街を歩き回った。「今では滑稽に感じてしまいますが」と彼は笑う。もちろん、インターネットとスマホ、そして英語標識の普及により、東京での移動はしやすくなった。

 東京のあらゆる面がさまざまな速度で変化していく様子を見てきたシュミット氏。彼は友人の言葉を引用しこう語る。「東京には二つの速度があります。流れる氷河のような遅さと、雷のような速さ。変わるのに数十年かかるものもあれば、一晩で変わってしまうようなものもあるんです」

 仕事の都合上、数か月ほど東京を離れることがあるシュミット氏だが、帰京すると街が全く違う姿になっていることがあるという。「帰るといきなり建物ができていたり、飲食店が数軒なくなったかと思えば、一晩で魔法のように何かが現れたりします」

 これまで見てきた中で、大きな変化を遂げた場所の一つが六本木だ。かつて大にぎわいを見せていたナイトクラブは、すっかりおとなしくなった。「モータウン・ハウスというクラブがまだあるんですが、26年前のお客さんたちが変わらず利用しているみたいですよ。すっかり年はとっていますけどね。彼らは決して離れようとはしないんです!」とシュミット氏は話す。

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来日当初のシュミット氏(1996年、新宿)。Photo: courtesy of Randy Schmidt

 シュミット氏が東京で見てきた中で最も大きく変化したものは多様性だ。「今は外国人の住民が以前よりずっと多くなりましたね。1990年代の東京では、欧米人の求人と言えば英語教師と校正者ばかりでしたが、現在では求人も多様化し、あらゆるスキルを持った人材が東京で活躍できるようになりました」

 いわゆる「サラリーマン」がまだ東京では一般的だが、新たな職種も着実に増加している。このため、シュミット氏が来日した頃より、東京で働く外国人の選択肢は増えている。シュミット氏は仕事の内容が多様化していく一方、技術の発展により自分の業界が衰退していく姿も目の当たりにしてきた。「この20年間で、私が携わる外国テレビニュースの産業が縮小してきました。実際に今は働く人もかなり減っています」

 シュミット氏によれば、「ハイフン化(兼業)」された職が増加しているのだという。それにより彼自身もカメラマン、音響、編集者、プロデューサーなどを兼ねている。かつてはより大きなチームの中でそれぞれの役職に、一人一人の担当がついていた。人数が減った結果、一人で受け持つ範囲が広がったのだ。

家族と趣味の時間

 シュミット氏の人生にとっては、12歳になる息子ができたことも大きな変化だ。誰にとっても子育ては大変だが、アジア各地を取材で回り、家を数か月留守にすることもあるシュミット氏にとってはなおさらのことだった。コロナ禍では旅行ができない分、家族と昔の趣味に時間を費やすことができるようになったという。

 「息子にストップモーションアニメの制作方法を教え、一緒に作品を作るようになりました」彼の息子は徐々にこれに興味を失っていったものの、父親であるシュミット氏の中では再燃した。

 「北九州で開催されたライジングサン国際映画祭で、最新作を上映しました。また、北九州市が主催する子ども向けアニメ・ワークショップで講師も務めました」

 シュミット氏は、自分が身を置く東京の街とともに人生の歩みを進めた。当初は代々木上原で16平米のアパートを借りるのにも苦労したが、今では息子のために選んだ学校の近くに住んでいる。 

 「欧米人として、常に東京に歓迎されていると感じました。アパートを借りることの苦労よりも、良いことのほうが多かったのは確かです」と彼は語る。

 シュミット氏も東京も変化を遂げているが、彼自身にとって東京での生活は前向きな経験になっている。 「最高ですよ。やりがいもありますし、日本に来て本当に良かったと思います。他の場所に移住していたとして、もっといい生活ができたとは到底思えません。日本を選んで幸いでしたね、お世話になっています」

 シュミット氏にとって、変わってほしくない日本の名物があるという。「それは平日のランチの価格です。数十年たってもいまだにお得ですよ」

ランディ・シュミット

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CBSニュースのカメラマンと編集者を務める。1996年に来日してから26年にわたり、東京が物理的・文化的に変化を遂げていく姿を目の当たりにしてきた。
取材・文/ ローラ・ポラッコ
写真/ ローラ・ポラッコ
翻訳/ アミット