西葛西:東京の水辺で触れる南アジアの文化

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 西葛西は、一見すると東京にある他の街と変わらない。江戸川区に位置するこの街は、駅前が栄え、商店や学習塾、コンビニなどが密集している。しかし、この川沿いの地域には、第一印象からは知り得ない多くの物語が詰まっている。
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西葛西は近隣にまたがり都市型の住宅開発が進んだ。

 下町情緒あふれる光景、活気に満ちた商店街、そしてインド人のコミュニティが育んできたこの地区は、「リトル・インディア」の愛称で親しまれている。インドの家庭料理が味わえるレストランや専門店、地域のイベントなどが織りなすこのコミュニティは、今やこの街になくてはならない存在だ。しかし、その昔には全く違う景色が広がっていた。

 都市部の住宅地が本格的に整備され始めたのは、1979年に営団地下鉄(現在の東京メトロ)西葛西駅が開業してからのことだ。高層マンションや商業施設が立ち並ぶ脇道には、かつて干潟や海岸養殖場があった。

海のない「海辺の町」

 西葛西の物語は、常にその地理的状況に左右されてきた。現在では荒川沿いの街だが、もともとは東京湾に面しており、「葛西浦」あるいは「葛西海岸」と呼ばれていた。河口には、近代的な舗装道路やコンクリートの建物ではなく、広大な干潟や小島、湿地帯が複雑に入り組んでいた。浅瀬では、潮の満ち引きの激しい三枚洲が、湾内に3キロも続いていた。そこはまさに野生生物の楽園であり、アサリや海苔の養殖に理想的な環境だった。

 しかし、海抜の低さから街は常に洪水の脅威にさらされており、洪水を防ぐために江戸時代よりさまざまな試みがなされてきた。1910年(明治43年)に起きた大洪水では、台風による大雨で、東京だけでも150万人が被災したと言われている。この大災害をきっかけに荒川放水路が整備されたことで、洪水被害は軽減されるようになった。しかし第二次世界大戦後まで、この地区の大半は人口が少ないままであった。

 1947年(昭和22年)のカスリーン台風、1949年(昭和24年)のキティ台風も街に甚大な被害をもたらし、首都東京を守るべく、海岸に強固な堤防が造られることとなった。1972年には大規模な葛西沖開発事業によって浅瀬が埋め立てられ、西葛西全域が東京湾から完全に切り離された。そして、各種道路や市街地が整備されるとともに、病院やスーパー、学校などができ、現在のような街並みが形成されていった。

 この待望された都市開発が、東京を水害の危機から守るだけでなく、西葛西をより魅力的な住みやすい街へと生まれ変わらせることになる。南アジア系住民が増え、近代的な街へと変貌を遂げた西葛西は、いつしか「リトル・インディア」と呼ばれるようになったのだ。

インド人居住区として花開いた街

 西葛西のインド系住民は、多くの外国人コミュニティと同様に、人同士のつながりや利便性を理由に増加してきた。だが、そもそもインドの人々が日本に寄り集まった経緯には、一風変わった事情がある。

 1990年代末、時代が新たなミレニアムに近づくにつれ、世の人々はにわかに「とあること」を心配するようになった。それは世界の終末や、気候変動、パンデミック、社会の騒乱といった千年紀が引き起こす重大事象ではない。それはミレニアム・バグとも呼ばれた「2000年問題」という懸念であり、小さく、しかし確かに世間を騒がせた。

 この技術的な不具合は、世界のコンピューターを混乱させる恐れがあった。コンピューターのシステムは、年号が「'99」から「'00」に変わることを理解できないため、今がいつなのか、根本的に分からなくなってしまうのだ。この問題を解決するために、主にインドからIT技術者たちが東京に招かれた。

 幸いなことに、この懸念はほぼ杞憂に終わり、世界は混乱なく2000年を迎えることができた。対処に当たるために来日したインド人技術者たちの未来も明るかった。2001年以降、インド人IT技術者のビザが緩和されたことで、この地に住むインド人が急増したのだ。

 西葛西は都心のハイテク企業に程近いこともあり、技術者たちが居を構える地として人気を博した。しかしながら、東京で働くためにやってきたインド人の多くは、確かな能力を有しているにもかかわらず、当時は賃貸を躊躇する家主も多く、ホテルやウィークリーマンションを仮住まいとすることを余儀なくされていた。

 そんな中、救いの手が差し伸べられた。急増するインド人を非公式に支援していた、ジャグモハン・チャンドラニ氏だ。彼は西葛西に最初に移り住んだインド人の一人であり、この街での暮らし方を母国の人々に指南するのに最適な立場にあった。チャンドラニ氏は新たに移住してきたインド人を手助けし、地元の不動産業者とより永続的な住居を確保できるよう交渉した。それからというもの、西葛西のインド人コミュニティは急速に発展を遂げた。日本に住むインド人の約10パーセントが江戸川区に住んでいるという調査結果もあるほどだ。

本場の味を堪能

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西葛西には、本格的なインド料理を提供する飲食店がずらりと並ぶ。「トウキョウ ミタイワラ」もその一つだ。

 インド人コミュニティの繁栄に伴い、インドに関連したビジネスも盛んになった。次々と誕生したインド料理店や食料品店が、今もこの地域の多彩な文化を映し出すかのような、色とりどりの故郷の味を広めている。そのおかげで、この荒川沿いの街を訪れる人々は、おいしい本場インド料理に出会えるのだ。

 「トウキョウ ミタイワラ」では、スイーツと絶品料理を楽しむことができる。ランチタイムに2階へ上がると、ポップな色使いのテーブルが並び、家族連れで賑わうインド料理レストランのモダンな空間が出迎えてくれる。メニューはリーズナブルな1品料理の他、バラエティーに富んだセットも用意されている。サックリとした歯応えが特徴のサモサは、甘いチャイと共に食べると絶妙だ。1階のミタイ(インドで"お菓子"を指す)売り場では、食事を済ませて満腹になった客も持ち帰れるよう、手作りのお菓子が美しく並べられている。

 キッチンの棚をインドの食品でいっぱいにしたい時にも、西葛西で買い回るのがお勧めだ。豆やピクルス、美容グッズやアクセサリーなど、インドの雑貨を扱うお店が軒を連ねる。その一つが、この地で最も古い歴史を持つ「スワガット・インディアン・バザール」。インドの食材が所狭しと並ぶ、小規模ながらも本格的な食料品店だ。同じくインドの本格的なスーパーを自負する「TMVS FOODS」では、冷凍のパラタやギーなど、さまざまなインド食品を販売している。

 この街でしか味わえないグルメを満喫したら、次は腹ごなしの散歩に繰り出そう。西葛西には、散策に最適な緑地が点在している。まずは総合レクリエーション公園から出発だ。「子供の広場」と名づけられた児童向けスペースでは、インド人コミュニティと関連のある地域イベントが頻繁に開催される。「虹の広場」には長い人工の滝が設けられており、裏側を歩けば、非日常的な雰囲気を楽しめる。

 新長島川親水公園には、水しぶきのかかる人工池や小川沿いの遊歩道があり、気軽な散歩にはうってつけだ。東京湾を望むなら、葛西臨海公園へ。広大な敷地には、葛西臨海水族園があり、カヌー・スラロームセンターも隣接する。大きな葛西渚橋を渡ると、江戸時代の干潟の面影を残す葛西海浜公園の「西なぎさ」にたどり着く。眼前に広がる砂浜は、初夏に賑わいを見せる人気の潮干狩りスポットだ。

 土木工事による変貌もさることながら、インド料理店や雑貨店がひしめき合い、均質な国という日本のイメージを払拭する西葛西。ビーガンやベジタリアン向けのレストラン、インドの郷土料理専門店など、数々の魅力的な店から行き先を絞るのは至難の業だ。しかし、候補をリストアップしたメモを片手に、ひとたび街の一角に足を運べば、きっと何度も戻ってきたくなるに違いない。

文/レベッカ・サンダース
写真/レベッカ・サンダース
翻訳/アミット

*本記事は、「Metropolis(メトロポリス)」(2023年3月23日公開)の提供記事です。