Chef's Thoughts on Tokyo:
ネパール料理とスパイスの魔法     

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 東京を第二の故郷のように感じているというアディカリ・カンチャン氏はネパール南部、ヒマラヤ山脈のふもとに位置するチトワン郡出身だ。現在、中目黒の閑静な住宅街の一角で、ネパール料理レストラン「ADI(アディ)」を経営している。
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笑顔で迎えてくれる、ネパール料理レストラン「アディ」オーナーシェフのカンチャン氏。

本場ネパールの味を日本で再現

 カンチャン氏が幼いとき、日本に留学していた祖父がお土産を買ってきてくれた。幼い頃から日本は憧れの的だった。ほぼいつも家族の誰かしらが日本に住んでいたため、日本に移り住むことは自然で簡単なことだったと、彼は振り返る。

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蒸した金目鯛にホウレン草のカレーと新鮮なイチゴのライタ(野菜や果物のヨーグルト和え)を添えた一品。

 カンチャン氏にとって、ネパールの山間部から東京への移住はとても刺激的だった。すべてが初めての体験であると同時に、とても安全なことにも驚かされた。現在は経営者として、地域の人々や社会へとすっかり馴染んだ。東京は自らの文化を表現するのに適しており、人々も温かく迎え入れてくれて、新しいものを受け入れる土壌がある。新たなビジネスに挑戦するにはうってつけの場所だという。

スパイスとお茶が創り出す芸術

 「自分の料理スタイルはほぼ独学で、今もまだまだ勉強中」と彼は語る。とは言うものの、幼少の頃から料理には親しんできた。ネパールの伝統的な習慣に従い、子どもの頃から食事の準備を手伝っていたのだ。伝統的なネパール料理の作り方、スパイスの種類や調合については母親から教わった。今でもスパイスの香りをかぐと、故郷の家や青々とした山脈に戻ったように感じ、自分のルーツとの深いつながりを実感するという。

東京での起業

 経営学を専攻したカンチャン氏は、「日本とネパールの懸け橋になるようなビジネスを立ち上げたい」と考えた。ネパールは小さな内陸国で、その文化についてはあまり知られていない。

 だからこそ、「ネパールの伝統、文化、生活様式を発信できる場を作りたかった」と、彼は語る。東京で初めて手がけた事業は、親族がヒマラヤ山脈の奥地で栽培した、発酵をほとんどさせずに作るホワイトティー茶葉の販売だった。ホワイトティー茶葉が初めて東京に届き一口飲んだ瞬間、ネパールにいるような気分になったという。この体験に着想を得て、まず茶葉の販売からスタートし、後に本格的なレストランを開業するに至った。茶葉は現在でもアディの主力商品の一つで、ホワイトティーは同氏が経営するネパール茶専門店「CHIYA-BA(チャバ)」で、人気のマサラチャイと共に販売されている。

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東京の特産品のひとつで、東京都伊豆大島に自生するアシタバ入りフィッシュサモサに、トマトチャツネと甘いビーツを添えた一品。

 彼のシェフ人生は、麻布十番で既存の店舗の空き時間などを利用して営業する「間借りカレー」から始まった。ネパール料理をビジネスとして提供するノウハウは、このとき身につけたものだ。次第に自分のレストランを持ちたいと考えるようになり、2020年8月、妻と2人でアディを正式にオープンした。

 夫妻は店名に、サンスクリット語で「始まり」を意味するアディという言葉を選んだ。ゼロから始めてレストランを開業した自分たちにぴったりだと考えたのだ。新しいスキルを学ぶことや、新たな挑戦に踏み出すことなど、レストランの開業は夫妻にとって、多くの点でまさに「始まり」だった。加えて、カンチャン氏はネパールの伝統文化を、今までにないモダンな方法で発信していきたいと考えていた。その思いは、アディのお洒落なインテリアや、ネパール風益子焼の器に上品に盛り付けられた料理からよく伝わってくる。

産地から食卓へ

 アディのメニューは、季節ごとだけでなく、毎日内容が変わる。その日に仕入れた新鮮な食材を使用するためだ。サステナブルな食を目指すアディでは、日々の仕入れ内容を生産者に任せている。そのため、どんな食材が届くのか、夫妻にも正確にはわからないという。その日の配達が届いたら、日本の上質な食材が持つ豊かな風味を、ネパールのスパイスで引き立てて、一度食べたら忘れられない料理を生み出す。カンチャン氏はこれを「スパイスの魔法」と呼ぶ。

 またアディは、「産地から食卓へ」という言葉に新しい意味付けをするレストランでもある。使用する食材が生産される現場である農家や鮮魚店に、カンチャン氏が自ら毎月足を運んでいるのだ。食材の生産者について知ることが好きな彼には、農家の幅広い人脈がある。知らない農家でも、ためらわずに飛び込みで訪問して、何を生産しているのか尋ねる。どの農家もとても喜んでくれて、役立つコツやノウハウをたくさん教えてくれるという。

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街の一角に佇む「アディ」からは、思わず足を止めたくなるような、温かみのあるスパイスの香りが漂ってくる。

 カンチャン氏には、イタリア料理レストランと、静岡県焼津市の有名鮮魚店で修業した経験もある。漁の仕方や魚の下処理方法、一流の魚料理についてはそこで学んだ。彼は今でも毎日、焼津市にあるその鮮魚店から獲れたての魚を仕入れている。たまに、見たことのない魚が送られてくることがあるが、そんなときは仕入れ元に電話をかけて、どのスパイスが合うか教えてもらうのだ。そのアドバイスは、ワインの組み合わせ方にも取り入れる。

 現在、レストラン、茶葉専門店、そしてネパール式ライフスタイルブランド「Jiunu(ジウヌ)」と、3つの事業を展開している。いつか日本の田舎町に小さなホテルをオープンし、この3つの事業を合わせた究極のネパール体験を提供するのが彼の夢だという。

ADI(アディ) https://www.adi-tokyo.com/
取材・文/宮坂ローラ
写真/Tadokoro Yuuki
翻訳/アットグローバル