大赤字の老舗を28歳で継承... 木村屋総本店7代目、あんぱんを生んだ革新精神で復活に導く

*本記事は、「METI Journal ONLINE」(2026年2月6日掲載)からの転載記事です。

 日本で初めて「あんぱん」を生み出した、1869年(明治2年)創業の「木村屋総本店」。2025年前期に放送された、漫画家やなせたかしとその妻、小松暢をモデルとしたNHK連続テレビ小説「あんぱん」では、明らかに木村屋がモデルである東京・銀座のパン店「美村屋」がたびたび登場したことは記憶に新しい。

 今でこそ盤石に見える老舗パンメーカーだが、2000年代に入ると4期連続の赤字となり、資金繰りにも窮する状況に陥っていたという。そこで2006年、28歳の若さで七代目社長に就任したのが、現社長の木村光伯さんだ。まず徹底した合理化と組織体制の最適化を進め、経営を立て直した後、製品の品質向上、従業員のモチベーションアップなどに取り組み、経営安定化、業績アップにつなげていった。「昔ながらの味を守って、お客様に笑顔をお届けする一方で、伝統と革新を融合させて新しい価値を作っていく。それが木村屋総本店のあるべき姿です」と木村さんは話している。

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Photo: courtesy of METI Journal ONLINE

酒種でパン作り 製法は門外不出

―木村屋の代名詞となっているあんぱんは、1874年(明治7年)に初代の木村安兵衛が考案し、翌年には明治天皇に献上されていますね。まさに日本のパン文化を生み出したのが木村屋総本店です。

 日本の酒まんじゅうをヒントに、一般的なパン作りで使われるイースト菌ではなく、酒種を使って生み出されたのが木村屋のあんぱんです。西洋から入ってきたものをそのままの姿で売るのでなく、昔からの伝統を掛け合わせて新しいものを作りだしました。また、今や木村屋一番の人気商品となっている「むしケーキ」は1981年(昭和56年)に生まれました。これも、むしパン文化が中国から入ってきていましたが、日本人の口に合わなかった。そこで洋菓子の技術を導入し、硬くなりにくく、口溶けの良い製品として開発したものです。伝統的なものと新しい技術を組み合わせて、お客様に喜んでいただける新製品を売り出した。これが木村屋の精神になっています。

 看板商品であるあんぱんの製法は門外不出です。時代に応じて小麦の品種や製粉技術などの変化はありますが、原材料やその配合割合などの基本的な作り方は開発当時のままほとんど変わっていません。工場には「酒種室」があり、専属の「種師」が酒種を厳重に管理しています。そこには限られた人しか入ることができず、「種師」となるのは一世代一人だけ。師資相承で伝統的な製法を大切に受け継いでいます。

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看板商品のあんぱんは、八重桜の塩漬けと北海道産小豆の「こしあん」を使っている。Photo: courtesy of METI Journal ONLINE

 いわゆる朝ドラの連続テレビ小説で「あんぱん」が放送されていたときは、銀座での父親との思い出や、パン職人のヤムさんがあんぱんを作っている様子が劇中で描かれると、その日の午前中は「ひさしぶりに食べたくなった」と、たくさんのお客様に来ていただいて、大きな反響を実感しました。

経営経験ゼロ... 大先輩たちに教えを乞う

―木村社長は、どのような経緯で28歳の若さで社長に就任したのでしょうか? 社長を継ぐことは以前から意識としてあったのでしょうか?

 2001年に大学を卒業して木村屋総本店に入社したのですが、入社を決める前は、「いずれは後を継ぐことになるのかな」という気持ちと、「決められた道を歩きたくない」という気持ち、両方の思いが交錯していました。ちょうど東京工場が新しく建てられるときでしたので、「こういう機会はめったにないから経験してみよう」と入社を決めましたが、そのときはまだ後を継ぐ覚悟があったわけではありません。

 会社の経営状況について具体的に聞いたのは、米国留学から帰ってからのことです。会社は大赤字で自転車操業状態だということを初めて知りました。当時は父が代表を務めていたのですが、「自分の代で会社をつぶしたくない」という思いから必死になって対応していても、身動きがとれない状態になっていました。この際、体制を一新して若い力で経営危機に立ち向かってほしいと、まわりや金融機関から言われて、社長に就任することになりました。

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「食で感動を繋ぎ、幸福の輪を広げる。それが木村屋総本店の使命です」と語る木村社長。Photo: courtesy of METI Journal ONLINE

 だけど、そのときは経営に関する知識も経験もゼロ。右も左も分からない状態でした。しかも会社は崖っぷち。正直言って不安しかありませんでした。そこでアサヒビールの名誉顧問だった中條高徳さんや、日本製粉(現・ニップン)の社長、会長だった澤田浩さんら、経営の大先輩たちに会いに行って、会社経営の指針となることや、社長としての覚悟の決め方などさまざまな話を伺いました。そうしているうちに、不安で右往左往している場合ではないという気持ちになり、何とかしなくてはいけないという使命感が勝ってきました。

経営改革 パン作りの効率化に落とし穴

―経営立て直しのために、どのようなことを行ったのでしょうか?

 まずは資金繰りの改善です。工場や社員寮など保有していた不動産を売却して当面の借金返済と運転資金作りを進めました。そして大胆な「外科手術」ですね。四つあった工場のうち一つを閉鎖。肥大化していた製品アイテムも絞って、不採算部門を縮小しました。当時はパンのほか、洋菓子や和菓子、他社で販売しているような具材入りの薄型サンドなどの製品もあったのですが、売り上げが下がっていた製品のラインを閉じて徹底的にコストを削減しました。

 そうやってまずは、「マイナス」から「ゼロ」にすることはできました。次は「ゼロ」から「プラス」への転換ですが、これが難しい。従業員全員の意識が同じ方向に向かなくてはいけない、と企業理念を作り直しました。「食で感動を繋ぎ、幸福の輪を広げる」というものです。それとともに、外部の経営コンサルタントにも入ってもらい、徹底的な効率化を進めました。具体的には、だれでもパンが作れるようにマニュアル化しました。決められた量と時間でマニュアル通りにパンを作る。

 それが一時的にうまくいったかのように見えましたが、そうではありませんでした。販売現場を訪ねてみると、丸くなくてはいけないあんぱんが楕円形になっているなど、形が崩れている製品が店頭に並んでいました。

 なぜなのか。それはパンが生き物だからです。マニュアルで決められた通りに作っていると、その日の温度や湿度、酒種の状態などによって、結果が違ってしまうのです。従業員はちょっとした工夫をしなくなり、「言われた通りにやっているので私は悪くありません」と言う。よりおいしいものを作ろうという意欲が、マニュアル化によってなくなってしまったんですね。

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「ぱん食い競走を一緒に手がけている為末さんらと、立ち飲み屋を巡るのが楽しみの一つです」と言う。Photo: courtesy of METI Journal ONLINE

 パン作りには、効率化はもちろん大事だけれど、一方で愛情も必要。その両方がないと、おいしいパンはできません。一人ひとりが企業理念に沿ってどういう行動をすべきか、物作りに向き合うように意識改革を進めました。職人の技術と工夫を大切にし、職人たちが誇りを持ってパン作りに臨めるようにしていきました。

パンの味をAIで 伝統に新しい価値を

―そのような取り組みが、その後の業績回復につながっていったのですね。そして現在、課題としてどのようなことに取り組んでいらっしゃいますか?

 私たちの事業は、本店やデパート地下などの直営店で販売する「直営事業」と、主に袋パンを製造・販売している「スーパー・コンビニ向け事業」の二本柱になっています。ただブランドがばらばらになって分かりにくいところもあります。あらゆる世代の方に分かりやすく知ってもらうような工夫をしていきたい、と考えています。

 それから看板商品のあんぱんですが、特に20代、30代の若い世代の間で「あんこ離れ」という現象が起きています。そこで若い方たちにも気軽に私どもの製品を楽しんでいただきたい、と2020年から「キムラスタンド」という販売店を都内で展開しています。サンドイッチを中心としたメニューで、一番の目玉商品は、私たちの名物あんぱんのあんこを使ったサンドイッチ「バター・ホイップ&あんこ」です。

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キムラスタンド 大森店。Photo: courtesy of METI Journal ONLINE

 また2025年3月には、日清食品とコラボして、「完全メシ あんぱん」を発売開始しました。ビタミン、ミネラルなど33種類の栄養素がとれるあんぱんで、一般社団法人日本最適化栄養食協会から「最適化栄養食」の認定を受けています。

 このほか、NECのAI技術を活用して、恋愛感情と関連する味を表現した「恋AIパン」も開発しました。これはABEMAの恋愛番組「今日、好きになりました。」の参加者の会話と、フルーツやスイーツが登場する曲の歌詞を、AIで分析して味を決めたものです。

 伝統に、新しい技術や価値観をかけあわせ、より新しい価値をどう作っていくか。この木村屋の精神はこれからも変わりありません。

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「初めてのデート味」(左)と「やきもち味」。Photo: courtesy of METI Journal ONLINE

「ぱん食い競走」を全国で開催する理由

―世界陸上選手権400メートルハードルで、2回の銅メダルに輝き、オリンピックにも3回出場している為末大さんと「いっ"ぱん"社団法人ぱん食い競走協会」を設立したとお伺いしました。どのような狙いなのか、教えてください。

 日本は表面上、豊かな国に見えますが、見えないところで貧困が広がっています。厚生労働省の「2022年国民生活基礎調査」によりますと、17歳以下の子どもの貧困率は11.5%にも達しています。約9人に1人が、1日3食きちんと食べられない状態になっているのです。

 私たちが近隣の子ども食堂にパンを提供しても、限界があります。そこで、為末さんと、老若男女だれでも楽しく参加できて、それが全国各地の子ども食堂への協力拡大につながるようなことができないか、と話し合ってできたのが、ぱん食い競走の協会です。一般からの参加者を募ってぱん食い競走を行い、参加した人数分のパンを地域の子ども食堂に提供しようというものです。これまで全国で34回ほど開催し、約1万2000人に参加していただきました。提供するパンは木村屋のものでなくてもいい。福岡では福岡のパンメーカー、京都ではやはり地元のパン屋さんからパンを提供していただきました。この活動は木村屋の宣伝ではありません。地域のパンメーカーが、地域を支えるきっかけ作りになってほしい、というのが為末さんと私たちの考えです。全国の主なパンメーカーにも協力を呼びかけており、さらに活動が広がっていけたら、と思っています。

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子ども食堂支援のためのぱん食い競走には、これまで全国で約1万2000人が参加している。Photo: courtesy of METI Journal ONLINE

―39歳以下の後継者が家業をいかした新規事業のアイデアを競い合う、中小企業庁主催の「アトツギ甲子園」では、地方大会の審査員を務められたそうですね。

 はい、後継ぎ経営者が集まる会合に誘われたことがきっかけです。どんな業種、業態であれ、後継ぎにはプレッシャーがあるものです。後継ぎとして、家業をいかにして守るか、あるいは発展させるか。強い思いはありながらも不安は大きい。それは10年前、20年前の私自身の悩みでもあります。いろんな人がいて、いろんな思いがあるけれど、立ち止まっている人はいません。誰もがもがきながらも自分なりの新しさを打ち出そうとしている。審査員を務める私自身もそこから大きな刺激を受けました。

木村 光伯(きむら・みつのり)
木村屋総本店代表取締役社長

1978年、東京都出身。2001年、学習院大学卒業後、木村屋総本店入社。日本パン技術研究所で研修後、2003年にアメリカ国立製パン研究所へ留学。帰国後、製造、製品開発、販売などの現場勤務を経験。2005年、木村屋総本店取締役。2006年、常務取締役を経て同年、28歳で七代目社長に就任した。

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