パックンが語る、東京が叶えてくれた夢のキャリア

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 「パックン」ことパトリック・ハーラン氏は30年近くにわたり東京を拠点にオールラウンドなタレントとして活躍している。大学でも教鞭をとる、まさに万能型の教養人ともいえる彼の日々の暮らしと歩みに迫る。
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パトリック・ハーラン氏は、「パックン」の愛称で90年代から日本の芸能界で活躍してきた。

東京で夢を現実に

 パトリック・ハーラン氏は、まさに万能型の教養人だ。コメディアン、コメンテーター、司会者、俳優、DJ、作家、さらには東京工業大学の非常勤講師として活躍し、1996年に上京して以来、めまぐるしい人生を送っている。ハーバード大学を卒業後、日本で英語を教えるという友人と一緒に来日した。「彼に誘われて一緒に日本に来ました。大学を修了しても他にやることがなかったんです」とハーラン氏は言うと、「ハーバードの学位が何かにつながるわけでもないですしね」と冗談交じりに語った。その後、2年間を過ごした福井では、英語を話す人がほとんどいなかったため、日本語をみるみるうちに習得。わずか2年で日本語能力検定の最高レベル、一級に合格した。

 上京すると、俳優事務所やタレント事務所にひたすら応募した。自分が成功した要因の1つは、東京では目立った存在だったことだとハーラン氏は言う。「ハリウッドスターになりたいという夢があったんです。もしハリウッドに行っていたら、みんな私と似たような顔で、声も似ている。学歴も同じようなものだったかもしれないし、演技の訓練も私より受けていたことでしょう。私は(俳優の)マット・デイモンと同じ学校に通ったんですよ!」ハーラン氏は、ハリウッドの歴代俳優の中で最も興行収入を稼ぐ俳優の1人であるマット・デイモンの名声のために、身を引いたのだと冗談を飛ばす。「マット・デイモンの将来を思って、私は日本に残って挑戦することにしたんですよ」それが本当なら、マット・デイモンは彼に感謝すべきなのかも。

 上京して1年後に、吉田眞氏と漫才コンビ「パックンマックン」を結成し、ブレイクを果たした。当初はハーラン氏の繰り出す「アメリカらしさ」が目新しいだけで、一時的なブレイクに終わると思われていたが、2人はそれが間違いであることを証明し、今日に至っている。

 吉田氏とは知人の紹介で知り合った。「彼は俳優か芸人、私は俳優を目指していました。そこで、共通の知人が彼に電話をして『あなたに会いたがっているアメリカ人がいる』と言い、私への電話では『あなたに会いたがっている日本人がいる』と言ったんです。彼は私たちを騙してレストランに呼び出し、そこで一緒に食事をしました」その後の2人の活躍は誰もが知るところだ。

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2001年に新宿で行われた「パックンマックン」のライブ。Photo: courtesy of Patrick Harlan

 どの業界もそうだが、特にエンタメ業界では人脈づくりが欠かせない。ハーラン氏は、東京では友人をつくるのはとても簡単だと言う。「日本人は友達をつくるのが好きですし、気に入った人は自分の友達にも紹介します。私の経験ではそうですね。自分から積極的に会いに行きさえすれば、交友関係を広げるのは簡単ですよ」

 東京はますますオープンで多様な都市になりつつある。ハーラン氏も「人々は在留外国人や外国人旅行者に親しみを感じるようになっていて、英語を話すことにも抵抗がなくなっています」と語る。また、世界情勢にも関心を持っており、出演する番組の内容も、ここ1015年ではるかに国際的になってきているとハーラン氏は指摘する。

「何でもできる」東京での暮らし

 そうした状況をもたらした一因は、政府が「多様性」を推進していることだとハーラン氏は考えている。「日本人は政府の施策に敏感です。ですから、政府が創造性や多様性を高めようとすれば、これらのキーワードが実現し、聞き流されることはありません。国民も努力し、企業も努力するのです」

 このように職場や日常生活で包摂性が高まっていることから、日本で暮らし、働こうと世界中からやってくる人々が増えている。「あらゆる分野で外国人労働者が増えたので、人々は日常生活の中で在留外国人により親しみを感じるようになっています」とハーラン氏は指摘する。

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恵比寿のタップ&タンブラーのようなクラフトビールのバーや質の高い世界中の食品があることも、東京の魅力の1つだと語るハーラン氏。

 しかし、東京はそのユニークさを失ってはいない。「東京には今でも日本の都市としての趣があります」とハーラン氏は言い、「それに今は世界各地の食事が食べられるというおまけつきです」と語った。

 東京の魅力は、美味しいものだけではない。ハーラン氏は、東京で暮らし始めた当初、自転車であちこちに出かけたことを振り返る。「アメリカの著名なアーティストが日本の小規模な会場でパフォーマンスしていたので、より身近に見ることができました。同じバーに通っていた日本の著名人と交流することもできました。友人ができて卓球やバレーボールもするようになりましたし、コーラスグループに入ろうかと考えたこともあります。結局は入らなかったですけどね。それにジャズバンドとか。ここでは何でもできます。それに、自転車で10分、15分の範囲に何でもあります」都心に住むことを選んだことで、「非常にコンパクトで多様なグローバル都市で、素晴らしい生活を手に入れることができました。とてもラッキーだと思います」とハーラン氏は言う。

 彼が惚れ込んでいるのは、この街で多様な活動ができること以外にもあり、家族を持った今、東京の治安の良さを気に入っている。「東京での子育てに満足しています。最大の理由は、治安がいいことです。アメリカの友人には理解できないことですが、私の子どもたちは6歳から自分で通学しています」

 13歳と15歳になった子どもたちは現在、インターナショナルスクールに通っている。ハーラン氏はそこでの教育や学校生活に感銘を受けているという。「日本の先生を批判することは決してありません。彼らは本当に勤勉なんです!」都心で子育てをすることのデメリットも1つあり、それは公園で自由にボール遊びができないことだという。それでもハーラン氏は、アメリカに戻る選択肢を考えたとき、東京でキャリアも家庭も維持し続けることを選んだ。

 東京はハーラン氏に、移住する前には想像もしなかったようなキャリアを与えてくれた。多様なこの街のおかげで、マルチタレントそして「オールラウンドTVパーソナリティ」を自負して活躍している。そして、その仕事を彼は心から愛している。「私は非常に幅広いことに興味があるので、ぴったりなんです。この街だからその役割を担うことができます。世界の他の都市では、おそらく実現できなかったでしょう」

 自分と同じ道を歩もうとする人へのアドバイスを尋ねると、ハーラン氏はこう答えた。

 「あきらめないことです。日本があなたの夢の実現を阻むことはないのですから」

パトリック・ハーラン

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アメリカ・コロラド州で幼少期を過ごす。1996年に上京して以来、エンターテイナー、コメディアン、声優として日本のエンタメ界の第一線で活躍している。テレビ出演に加え、2012年からは東京工業大学の非常勤講師として、コミュニケーション学、国際関係論の講義を担当している。
取材・文/ ローラ・ポラッコ
写真/ 榊水麗
翻訳/ 前田雅子