Chef's Thoughts on Tokyo:
マレーシアレストランが育む家族の夢

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 「ペナンレストラン」は、マレーシア出身のシェフ、ロバート・マクリーン氏が家族で経営するレストランだ。料理人として世界を渡り歩いた彼は、東京に来て初めて、自分の店を持つという夢を実現した。今では息子のジョシュア氏に経営を託しながら、本場と変わらぬマレーシアの味を東京の人々に伝えている。
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港区芝公園にあるペナンレストラン。ロバート・マクリーン氏(左)、妻のトゥー・ジン・ブー氏(中)、息子のジョシュア氏(右)が一家で切り盛りする。

夢を叶えるまで

 ロバート氏が世界の厨房で活躍するようになるまでには、さまざまな苦労があった。両親を亡くし、幼い頃から兄弟の面倒を見てきた彼は、兄弟の独り立ちを機に、世界を旅することを決意。やがて、ヨーロッパ各地でシェフとして働くようになった。

 クルーズ船やレストランに勤めた後、マレーシアに戻って妻と出会い、1985年に長男のジョシュア氏が生まれた。その後、1990年代前半に単身東京へ渡り、ホテルのシェフとして働いた。数年後の1997年には、妻と12歳になった息子も東京に越してきた。

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マレーシアで人気の焼き飯、ナシゴレン。スパイシーなサンバルソースとエビが味の決め手だ。

 それから26年経った現在、ロバート氏は店の経営を息子ジョシュア氏に託すようになった。息子は父の夢を支えながら、事業拡大の道を模索している。2人の役割分担について、ジョシュア氏はこう語る。「父が厨房担当で、僕がマネージャーです。売上を管理し、メニューを決め、ビジネスを運営します」 時折、料理の師匠でもある父と共に厨房に立つこともあるという。「ケンカすることもありますよ。でも、それが家族というものですよね」と、笑いを交えて話してくれた。

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魚ベースの甘酸っぱいスープが特徴のアッサムラクサは、マレーシアを代表する麺料理の一つ。ペナンレストランを訪れる客にも大人気だ。

 マクリーン家の出身地であるペナン島にちなんで名付けられたペナンレストランは、2012年のオープン以来、10年以上にわたりマレーシア料理を提供し続けてきた。ジョシュア氏が開業のきっかけを振り返る。「ペナンレストランを始める前、ここは父の友人が経営する中華料理店でした。その方が店舗の売却を決めた際、父が譲り受けたのです。これが父の夢の始まりでした」長年、人の下で働いてきたロバート氏がこの時、ついに東京都港区に自身の店を構えた。

 ロバート氏のこだわりの一つに、「納得できる材料が手に入ったメニューは作るが、なければ作らない」というルールがある。本格的なマレーシア料理を作るには、代用品で済ませるわけにはいかない。本物を探し求めた結果、台東区上野のアメ横にあるアジアンマーケットが材料の仕入れに最適だと分かった。「地下街でアジアの食品をたくさん売っている店を見つけ、当初から上野に通っています。新鮮な食材からスパイスまで、何でも手に入るんですよ!」また、インターネット経由で、マレーシアの食材を海外から取り寄せることもあるという。

小さな始まりから広がるマレーシアの味

 ジョシュア氏は、自店の経営は必ずしも簡単ではないと話す。「タイ料理やベトナム料理と比べると、マレーシア料理は日本であまり馴染みがありません」だからこそ、多文化が共存する芝公園という地に店を構えられたことは幸運だったという。

 「この辺りには外国人居住者が多く、マレーシア料理が受け入れられやすい土壌があったんです」当初は、マレーシアで暮らしていた、あるいは同国を訪れた経験を持つ人々やマレーシアの味やアジア料理に関心のある人たちが主な客層であったそうだ。今ではその幅は広がり、ランチセットを楽しみに訪れる会社員も増えたそうだ。

 また、コロナ禍直前の2019年にキッチンカーを始めたことも、ビジネスの拡大に貢献した。キッチンカーの都の営業許可のプロセスはスムーズだった。より多くの人にマレーシア料理を味わってもらうべく、今も東京のあちこちを巡っている。「日本の方々は、以前よりかなりエスニック料理に親しんでくれるようになりました」とジョシュア氏。「キッチンカーで料理を売っていると、『それ、辛いの?マレーシア料理って初めて』などという声が聞こえてきます。新しい味に挑戦する人が増えましたね」さらに一家は、香辛料や唐辛子などを販売するオンラインショップも開設した。「これが次なる夢へのステップです」とジョシュア氏は話す。

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かつて中華料理店だったペナンレストランは、港区芝公園の閑静な通りにある。

東京の地で生活を確立し、コミュニティを形成

 店を始める前に東京に移り住んだ当時のことを、ジョシュア氏はこう振り返る。「わずか12歳で日本に引っ越すのは、どんな外国出身者にとって困難が伴うことだと思います。日本語を一言も話せなければ、なおさらです。でも僕は恵まれていました。外国人が多く通うインターナショナルスクールには行かず、地元の中学校に入り、親しく接してくれる仲間に出会えたからです。日本語が全く話せなかったので、まず文字を覚えようとしたところ、先生や友達が協力してくれました。親切な人たちばかりでしたね」 

 現在、ジョシュア氏は自身の家庭を持っている。東京で知り合った妻と、地元の学校に通う3人の幼い子どもたちだ。「東京には、子どものためになる優れた教育システムがあります」また、大人の監視がなくても子どもだけで歩いて帰宅できることを挙げ、子どもたちが伸び伸びと過ごせる治安のよさを称賛した。「東京の街はとても安全ですね。僕の母国では考えられないことです」

 毎週日曜日には、東京に住む多くの中国人やマレーシア人が集うキリスト教ペンテコステ派の教会に家族で通う。教会では、少なくとも週に1回は顔を合わせる親密なコミュニティが築かれている。東京におけるマレーシア人の数は決して多くはないが、ジョシュア氏は他のマレーシア料理店を営む同業者とも親交を深めている。約10軒からなるコミュニティのFacebookページで互いにつながり、時々集まりを開いているそうだ。

 また、学生時代の仲間とも連絡を取り合っている。「中学・高校時代の友人たちとは、今でも連絡する仲です。時々レストランに遊びに来て、僕らを支えてくれているんですよ」約30年間この地で暮らしてきたマクリーン家は、この街に確かな根を張っている。「最初の頃は、ここは自分の国ではないと感じていました。自分は日本という異国に住んでいるだけだと思っていたんです。でも、東京の人たちはとても親切で礼儀正しく、敬意をもって接してくれました」人々の優しさがあったからこそ、ジョシュア氏と一家は東京に腰を落ち着けた。そして地域コミュニティの一員となり、東京を新たな故郷とすることができたのだ。

ペナンレストラン https://www.penang-restaurant.com/
取材・文/ローラ・ポラッコ
写真/ローラ・ポラッコ
翻訳/アミット