東京のヘルスケアに見るカラダの未来
ウェアラブルの行き着く先はカラダの拡張
「カラダ」とは何だろうか?例えば鼻は身体の一部だが、鼻腔とも表現される鼻の穴は空間であって、窒素や酸素や二酸化炭素から構成されているようにも捉えることができる。吐く息や声は?そもそもからしてカラダとカラダ以外の境界線は曖昧に思える。
さらにヒトに依っては、左手の薬指に付けた金属製のリングは既にカラダの一部と化しているのかもしれない(そうでないヒト、更にはしばしそうでなくなるヒトもいて、そのことがときにメディアを賑やかす)。耳に穴を空けてやはり金属製のリングを付けるヒトに対して怪訝な顔をする人は、今や現代日本において僅少だと言える。
昨今そういったカラダの定義をより曖昧にしている事象が、現代社会において「ウェアラブル」という形容詞が現在進行形で一般名詞化していることだ。人々が寝る時にまで着用する「スマートな腕時計」に代表されるウェアラブルデバイスは、通貨決済機能のみならずヘルスケアに関する様々な便益を享受することが期待されており、当該技術や関連アプリケーションに対する投資が東京においても進んでいる。
東京においては、大田区のXenomaという企業に目を向けると、「e-skin」の名のもとに、パジャマ、運動着、ワッペンにまでカラダの外延を拡大し続ける試みを行なっている。部屋の環境を睡眠状態に合わせて最適化するだけでなく、EMS(筋電気刺激)によるトレーニング、心臓血管のコンディション検知などを可能にする「e-skin」の機能を見ると、カラダという概念を拡張し、人々の生活や健康に介入する機能を持ち始めているように思える。
さらに先にあるインプランタブルの兆し
一方で、例えば銀歯は私のカラダの一部なのか?というカラダの内側に関する境界線の曖昧さも存在する。ペースメーカーなどに代表される埋め込み型機器は医療の実践で夙(つと)に用いられているが、比類なき極小化と医療を越えた機能強化が施されたスマートなインプランタブルの社会実装には世の議論が尽きない。埋め込む方針のイーロン・マスクと埋め込まない方針のマーク・ザッカーバーグは、両者ともに先駆けた投資開発を行い、便益、侵襲性、倫理性に関する議論を続ける。
東京でも「20年後までに人間の意識を機械にアップロードする」ことを野心的な事業目標とした企業も登場しているようだ。豊島区のスタートアップであるMinD in a Device(マインド イン ア デバイス)は、人の意識のモデル(生成モデル)を実装した次世代AIの実用化に向けた開発を足がかりにしながら、最終的にブレインマシンインターフェースを通じて人の脳を機械につなぐことで、ヒトの意識をデバイスに移植することを目指している。
東京において顕在化するFuture of Body
これらを思い切って敷衍(ふえん)すると、未来においてはヒトのカラダが「マチ」という概念まで拡大するのではないか、とも考える。スマートなマチにおいては、衣食住あるいはあまねく行動がテクノロジによって繋がるのではないか。
道路を動脈、下水道を静脈、データ通信網を神経系、不動産を臓器(または細胞)と措定して活きるマチを重ね合わせるのは飛んだ妄想かもしれないが、先に挙げた取り組み等を見るに、カラダの概念が想像以上に大きく拡張されていく未来は、既に東京においても萌芽的に顕在化しているのを伺える。