隈研吾が語る、日本建築における発明と国立競技場の秘密
2021年夏、熱戦の舞台となった国立競技場。設計を手がけた隈研吾は、五重塔のようにひさしを反復させる裳階(もこし)の構造をイメージし、全体案を練ったという。ひさしの下には全国から集められた杉材を垂木(たるき)のように連続させ、屋根には数寄屋造りを由来とする「むくり(上方への反り)」をつけるなど、日本建築の技を巧みに操る表現を試みた。「和の大家」と呼ばれるのは居心地が悪いと語る隈だが、現代に采配をふるう「木の使い手」として、彼ほど果敢に日本建築のセンスを国内外に発信している建築家はいないだろう。
この国の生活者として、我々は木の美しさや畳の快適さを身体感覚で心得ている。だが、日本建築と聞くとどこか敷居が高く感じて、かしこまってしまうのはなぜだろう。近くて遠い、だけど知りたい日本建築。その真髄とはなんなのかを尋ねると、彼は「真髄って、あまり考えなくてもいいんですよ」と、あっさり答えた。
「"日本建築道"みたいな、ひとつの正道として捉えるよりも、自然災害や外国から来た文化と共存していく上で、多様な課題をカバーするフレキシブルなシステムだったと考えるほうが現実的です」
隈いわく、柔軟性こそが日本建築のもつ強さ。数寄屋の侘び寂び、神社のスピリチュアリティ、日本家屋から城まで、幅広く対応する柔軟な技法があったから、建築表現は洗練されてきたのだという。
日本建築の柔軟さこそが、これからの社会にふさわしい
「中国から来た組物を咀嚼し、日本流に変形し、ある時には禅宗様が入り、それをまた咀嚼していく。そうして培った多極的な柔軟さが、西洋のモダニズム建築との二項対立のせいで見えづらくなってしまった。でも、いまはフラットな時代。むしろ日本建築の柔軟なシステムは、これからの社会にこそふさわしい」
二度の震災とパンデミックを経て、いまはコンクリートではなく木の時代といわれる。大きな箱で一斉に働く必然から解放され、小さく点在する空間を確保して外とつながる。そんなITとリモートの社会に、日本建築を支えてきた木という素材は親和性が高い。
「日本建築がフラットなシステムなのは、木をうまく使いこなしてきたから。木造は建てた後も状況に応じて無限に増改築できるし、特に日本の木造技術は、屋根を固めることで柱の位置さえ変えられる。この発明によって、世界のどこも達成しえないフレキシビリティを確保しています。それは、個人が働き方を選ぶ時代にフィットするシステムだと思うのです」
各地の山で調達し、地元で加工できる普通の木材を使った、増改築と補修を目的とする工夫の連続。隈はそうした循環を「偉大なる平凡」と言い、大工たちが洗練させてきた数々の工夫こそが、日本建築の面白さだと説明する。
「木でひさしを深く出すにはどうするかという工夫から見ると、桂離宮なんかは、逆に軒の出方が浅いんです。それはお金がなかったせいだと、吉田五十八は切り捨てている。桂離宮は素敵だけど、持ち上げられすぎだと僕は思っていたから、崇高という先入観を捨てればそうした新しい見方もできるんだと、吉田の桂離宮論を読んですごく勇気が湧きましたね(笑)」
国立競技場に用いられた杉は、最も流通している小断面の集成材。稀少な木材よりも、平凡な細い柱を美しいとする感覚は、千利休の小さな茶室・待庵にヒントがあるという。
「利休が細い柱や薄い壁に挑戦したのは、平凡で貧しいとされるものに、実は美と豊かさがあると考えたから。日本建築は、細さを透明感や軽やかさというポジティブな価値に逆転させるシステムを、ずっと磨き続けてきたんです」
とはいえ、利休が神様のように語られて深遠なるものを纏ってしまうと、彼のもつ逆転の精神が見えなくなると、隈は言う。日本建築においても、虚名を取り去って魅力を再発見できれば楽しい。
「木造は完成した時が最終形ではなく、傷んだ部分を木で補修し、柱を動かし間取りを変えて、生き永らえる。偉大なる平凡、逆転の連続、そして、生き続ける生命体。そんな日本建築に、僕は興味を抱き続けています」
隈研吾(くま・けんご)
1954年生まれ。90年、隈研吾建築都市設計事務所設立。東京大学名誉教授。97年「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」で日本建築学会賞、2011年「梼原 木橋ミュージアム」で芸術選奨文部科学大臣賞、ほか受賞多数。18年に紫綬褒章。おもな著書に『点・線・面』『負ける建築』(ともに岩波書店)など。※本記事は「Pen」(2022年2月号)の提供記事です。