Chef's Thoughts on Tokyo:
手作りのチリ料理とサッカーを通じて、コミュニティを生み出す
1983年、フェラダ氏はチリの故郷マイプーの地元紙に掲載されていた、日本の電気通信企業の求人広告に目を留めた。そして、200人の応募者のなかから採用され、日本への赴任が決まった。
サッカーを通じてコミュニティを築く
チリ人としては普通のことだが、フェラダ氏もサッカーを愛する人物だ。そして、その情熱を日本へと持ち込んだ。1992年、彼は自らフットサル大会「コパ・チリ(スペイン語で〈チリ杯〉の意)」を立ち上げた。日本を含む17カ国から計32チームがトーナメントに参加した。支援もスポンサーもなく困難なスタートとなったが、それでも大会は大成功だった。3年目には借金が膨らみ開催を諦めかけたが、公益財団法人日本サッカー協会(JFA)をはじめとするスポンサーの獲得を果たし、そのまま2016年まで25年間に渡り「コパ・チリ」の運営に携わった。カサ・デ・エドゥアルドの店内に飾られた大会トロフィーには、歴代の優勝チームの名がすべて刻まれている。
サッカー関係者のあいだでフェラダ氏の知名度が高まり、ついにスポーツ・エージェント(代理人)のライセンスを取得するまでになった。高校サッカーチームを引き連れてペルーやチリ、アルゼンチンに遠征し、日本サッカー界にも大いに貢献した。
人々のためにキッチンに立つ
レストランを経営するようになる前、フェラダ氏はいくつかの仕事を経験してきた。最初に就職した企業を辞めた後、長野県で仕事を見つけて移り住んだ。その後、東京に戻って翻訳業に従事した。そして2011年に東日本大震災が起きると、チリから来日した報道陣の案内役として、東北地方の福島や仙台に同行した。とてつもない惨状を目の当たりにしたフェラダ氏は炊き出しボランティアとして、友人のスペイン人ホルヘ・ディアス氏とともに避難所生活を送る人々のためにチリの家庭料理を振る舞うことを決意。数百人規模の人々に提供するために、ステーキ、サラダ、ローストチキンといったチリの定番料理を大量に作ったという。炊き出しが大好評だったこともあり、フェラダ氏は東京で自分の店を持ちたいと考えるようになった。12年にディアス氏とともに一軒のレストランを創業し、翌13年に独立してカサ・デ・エドゥアルドをオープンした。
さまざまな人々との出会いの場となるレストランの経営は、一方で翻訳業を続けるフェラダ氏の楽しみでもある。特にあの震災後の東北地方での大規模な炊き出しのように、人々のためにキッチンに立つのがフェラダ氏は好きなのだ。「料理は常に我が子の食事とおなじ気持ちで作りなさい」というのが、レストランを経営する彼の座右の銘だ。
祖母の手料理、そしてシンプルなチリの家庭料理の味が、フェラダ氏のインスピレーションの源だ。たとえば仔羊(ラム)のローストのマッシュポテト添えといったメニューは、今でもフェラダ氏の祖母のオリジナルレシピで作られている。上質な肉をふんだんに使いながら薄めの味付けで素材の魅力を活かし、愛情とくつろぎを届けるのがチリ料理の特徴だという。フェラダ氏自身も、味付けは最小限に抑えて素材の持ち味を引き出すことで、チリ料理の伝統を忠実に守っている。食材のほとんどを都内で調達しているが、クオリティは上々だと言う。
「東京では世界中の人々と出会うことができる」と、フェラダ氏は国際色豊かな東京での生活を楽しんでいる。また、ビジネスマンとしては、起業家に対してとても優しく、ベンチャーに対するサービスが充実している点を強調する。起業を目指す人々へのアドバイスを求めると、恐れずになんでも尋ねてみることだと、助けてくれる人は大勢いると微笑みながら言い添えた。
今年67歳になるフェラダ氏は、その人生の大半を日本で過ごしてきた。だからこそ、母国への恩返しをするために、75歳になったらチリに帰ることを胸に誓っている。それまではカサ・デ・エドゥアルドを続けるつもりだ。ここに来ればチリの家庭料理と愉快な会話が待っている。
カサ・デ・エドゥアルド
https://www.facebook.com/edojapon1/写真/倉谷清文
翻訳/飯島英治